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1922 [山]

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1922年2月8日大正11年の早朝、白洲正子十二歳は大磯の海辺にある二松庵という別荘から、山側にあるもう一つの別荘「自然亭」という園芸場に向かっていた。この園芸場には祖父樺山資紀が危篤となっていた。と白洲正子自伝に書かれている。「ふと気がつくと、今や月が富士の左肩に沈みかかっている。刻一刻、ついに、まったく、没してしまった。今まで影のごとくにうっすらと浮かんでいた霊峰は、突如輝きを増し、烏羽玉の空にきらきらと、其の全容をあらわして行った。そこにはふだんの富士の優雅はなく、美しいというよりむしろ凄惨をきわめた。」と書かれている。これは昭和三十二年に書いたもので、月の光背のもとに雪を抱いた富士山は、今では祖父の姿とひとつになって、私に中に生きている。人間には生涯忘れぬ風景というものがあるのかも知れない。と彼女は書いている。今から九十年近い昔の富士の姿を求めて2012年2月の富士を見た。五歳の白洲正子は大磯鴫立庵の隣りにある二松庵という別荘で遊び、鴫立庵は自分の家の庭のように出かけていたと言う。
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春めいて来た鴫立庵は東海道に面している。
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東海道は鴫立川をちいさな鴫立石橋で渡る。小学生が親子で通学中。
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同じく鴫立庵の前の東海道を渡り通学途中の子供。
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二松庵の跡は現在マンションになり、二本寄添うように龍の如き松の姿から庵の名がつけられたというが何代目かの一本松が残る。
鴫立庵前から台の坂の上に雪を抱いた富士が見える。(通称昇り富士)
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昇りきると東海道松並木が残り、樹齢四百年近い巨木も見かける。此の坂道を上り、線路の踏切を北に渡り、園芸場に向かったのではと推測される。
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鴫立川に沿って山方面に向かうと線路の手前に富士見橋という橋が架かる。ここからいつ頃まで富士が見えたのか。今では東海道線の線路際に塀が立ち富士は見えない。1922年頃は塀も無くはっきりと富士山の全貌が見えたのではないか。画像は2012年照が崎海岸より望む富士と箱根の山並み。
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十二歳の白洲正子が散歩道としていた別荘の道を推理してみた。彼女は道をあるくのに迷った事は無く頭の中で地図を描ける才能があったという。当時の家や別荘は垣根のようなものも低く、塀など無いのがあたりまえで、畑の道や野原を歩いてもいるのだろう。
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右に富士、左に金時山を望む、日本で最も古い海水浴場となった照が崎海岸より。
アオバトは4月の後半からこの海岸に海水を呑みにやって来る。
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コメント 3

Silvermac

高級別荘地だけあって有名人の逸話には事欠かないですね。
by Silvermac (2012-02-22 06:17) 

e-g-g

白洲正子さんの『西行』、そのなかの「鴫立沢」を読んで、
この地のことを知りました。
私にとっては西行と深く結びついた地名です。
二松庵跡地のマンション、現実の今の時代に引き戻される光景ですね。
by e-g-g (2012-02-22 14:34) 

SILENT

Silvermacさん
土佐出身の中島信行の別荘もありました。今では新興住宅ですが境界石に「中島家所有」の文字が刻まれた石が残っています。
e-g-gさん
白洲正子さんの「西行」では、秋の夕暮れの歌の地は、あそこしか私にはない!と言われていますね。祖父の姿で海岸でアメリカ大陸はあっちじゃと幼少の正子さんに呟く下りが大好きです。
by SILENT (2012-02-23 12:40) 

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