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1947 [神]

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昭和の頃この町は、鰤の大漁に湧いた町だった。
自転車の男は戦後間もないころGHQのカメラで捕らえられていた。
「道心坊」の魚が自転車の荷台にあるのだろうか。道心坊はネットでお調べください。
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3年程前の4月に、このブログで「どうしんぼう」という漁師町の言葉の事を書いた。http://silentsilent.blog.so-net.ne.jp/2009-04-24
網野善彦著「歴史を考えるヒント」を読んでいて面白い記述に出会った。
『ことばの文化史・中世1』平凡社1988の、勝又鎮夫さんが『落とす』と言う言葉の考察で優れた考察をされているという。『落とす』には大変面白い意味が含まれているという。
ある物を落とすという行為には、それによって相手の所有の権利を切り離すという意味が含まれていたという。「切る」とは世俗の縁を切る行為であり、切られたものは様々な因縁から自由となり、流通可能になるとあります。落としたものは、誰のものでもない無主物となり、神仏のものとなってしまうのだそうです。また古来、「落とし物」は無主物なので拾ったものの得となるとされてきました。「落ち穂拾い」も同様で、収穫の後に田畑に落ちている稲等の穂は、誰のものでもなく神のものなので貧しいものが拾う事は咎められないと考えられていたのです。海で獲れた漁の魚も網からこぼれたものは同様の扱いがあったのではないでしょうか。

更に重要な問題は「落とす」と言う行為は山や海、道や泊(港)といった特定の場所で行われる事が多かったという。例えば「山落」やまおとしという言葉があるそうです。これは山賊の事で、ある特定の場所ではある時、全てのものが落とされて、無主物になるという状態があったと言います。具体的には山の神の怒りをかうと、通常の山と異なる状態になり、山中に存在する全ての物体が「落とされて」山の神の帰属になるのだそうです。其の状態の時には山中にいる人のものを奪い取る事を山の神も認めるという感覚が、中世の社会にはあったそうです。「山落」を名目に人為的な略奪行為が、「山落」「追落」と呼ばれたと言います。
「落とす」という意味に、神のものとなる関係があったなんて面白い事ですね。
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大磯丘陵に昇りました。登山道となるハイキングコースは荒れているけれど写真では深山の趣が出ました。
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ある女流画家が聖域としてのこの付近の山に霧が這い上がる光景には神秘的なものがあると語っておられます。確かに霧の大磯丘陵趣が深いです。
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途中古墳時代の横穴墓群があります。
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尾根からは平塚の町が望めます。新幹線は東京へ向かい、三角の屋根群は天に向かう。
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かって大賑わいをようした大磯の海水浴場光景
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道心坊とは、魚を神から恵んでもらう事なのかもしれない。「落とす」と言う中世の言葉の時代から、物には神の領域の時代があった事を知りました。盗みと思っていた「道心坊」には深い意味が潜んでいるのではないだろうか。現在の東海道は自転車族が多い。鴫立庵前にて。
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2012年秋の鴫立庵附近を箱根方面に走る。
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Silvermac

NHKドラマ「吉田茂」、ピンと来ません。
by Silvermac (2012-10-02 06:12) 

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