SSブログ

一月十日 [祭]

大正十二年横浜新報、一月十日の記事より。今年は寒い!十日過ぎても大磯に318名の客あり。この年の正月は寒くて避寒客が旅館等に多く居残っていたのだろう。避寒した人々は時間的にも余裕が取れる人々だったのだろう。
大正十五年(1925)のこの日の記事、人口が激増大磯町2017戸9407人、一戸あたり家族が5人弱。国府村752戸4207人、一戸あたり6人弱。当時は多い家では10人家族もざらにあったであろう。
昭和4年大磯では鰤二百余尾の大漁。相場は7円の高値。当時の相場で一尾一万円はゆうに超えていたようで二百万から二百五十万円近くの水揚げ相場の感覚に思えます。
昭和8年、大磯の瀬の海の棚を荒らす、愛知県からの20トン級の木造漁船あらわる。漁場の権利は確立されていなかったのだろうか。激しい対立の空気が読めるのだが。
昭和14年平塚国府間の複々線化工事実施、15年からの4カ年総工費400万円。
一月十日.jpg
平成27年1月10日湘南大磯の下町を歩いた。下町はかって鎌倉古道もあった時代からの漁師町で正月行事の「団子焼き」が、「左義長」という名に明治の頃から変わって数百年に渡って行われている。近年祭りのクライマックスの火祭りが、昔からの一月十四日の晩でなく、土日に開催と変更された。人手不足と観光的な側面の二つがあるようだ。道祖神を祀る子供達が主役の祭りだったが、少子化で祭りの担い手の構成も変化したようだ。
御仮屋(オカリヤ)という小屋が建てられ、道祖神さんがオカリヤで三日間過ごし、十四日の朝浜に出てサイトという火祭りの準備が始まる。三日間は7箇所の地区のオカリヤを詣でることを「ナナトコマイリ」といって全てを廻ると無病息災が約束されるという。明治に大火があり下町の一部の人たちが東に移転して8箇所がお参りの場所となっている。
画像は浜の町という集落のオカリヤと、神を招来するアンテナの役目のようなオンベダケ。オカリッコと呼ぶ子ども達の囃子声には欠かせない太鼓と、主役の双体道祖神さんが鎮座している。朝日の中吹き流しが風に音を立てている。今年も良き年であるよに老若男女オカリヤを廻る人々が今夜のナナトコ参りを終え、明日日曜の晩に海岸につくられたサイトに火が入る。島崎藤村も昭和16年の一月十四日の晩に左義長を見て、この町に住むことを決めたという。
nice!(29)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 29

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

一月九日 一月十一日 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。