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9月08日 [アート]

「横浜絵」というものが明治時代にあったそうだ。絹地に洋風の陰影をほどこし写実的に描いた肖像画や風俗画を指し、外国人のための土産物や輸出用に作られたという。安物の寒冷紗に描かれたものから、高価な一枚ものまで多様だという。
1850年代の香港や上海では注文肖像画や、輸出絵が工房で製作されていた。横浜へも長崎や船からの伝播でたどり着いた可能性もあるそうだ。

興味深いのが、写真をもとに絵を描くことが一般的で、写真家と組んだ画家も多かったという。五姓田義松は一家で、工房をなし仕事に当たったという。浮世絵師の伝統が、近代の日本の洋画の世界の入り口にもなっていった過程が興味深い。そういえば写真の歴史の中で、最初絵画を模倣していることが興味深い。
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五姓田義松一家の図とある、明治5年頃の油絵、作者の義松は18歳くらいか。
一家で絵を分業でも描いて生計を立てたのだろうか。


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明治初期に描かれた、家族で合作中の図 鉛筆画


印刷技術が発達すると、絵画も写真も大量生産の流れに乗り、ネット上の現在の画像の時代へと凄まじい速さだ。

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13歳の五姓田義松の自画像は、父親の芳柳から駄菓子やこずかいをもらう年齢にしては誰が描いたかも、わからない謎の絵だという。
義松は、武士のたしなみとして、7歳の頃から剣術を習い、父の意向でワーグマンという画家に10歳で弟子入りしたという。13歳の義松の描かれたのは1867年慶応三年頃のことだという。同門の画家に、高橋由一という鮭の絵で有名な画家がいる。

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義松が23歳の頃描いた、横浜山手の洋館と、自画像。


写真の露光時間は当時でも数分であろうが、絵画は数日間も描きこむ時間がかかる、この時間の差は何か不思議なものを感じる。
時間とは何か?写真とは何か?世界とは何か?

キーボードになって打ち込み文字数が増えました。より簡潔に少ない文章となるように考えねばいけません。


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コメント 4

いっぷく

まるで写真を見ているようです。
相当な技術が必要だと思うのですが
分業で描けるものなのでしょうか。
by いっぷく (2016-09-08 21:52) 

SILENT

いつぷく様
分業は漫画やアニメのスタジオの仕組みと同じように、背景とか、着色専門とか、影の担当とか分けたのでしょうかね。スケッチは義松さん絶えず描いていたようで、展覧会では凄い数がありました。
by SILENT (2016-09-08 22:00) 

アヨアン・イゴカー

>五姓田義松一家の図とある、明治5年頃の油絵、作者の義松は18歳
素晴らしい技術ですね。18歳?!
ワーグマンは弟子を取っていたのですね。
by アヨアン・イゴカー (2016-09-08 23:22) 

SILENT

アヨアン・イゴカー様
ワ-グマンに油彩の手ほどきをうけようと、
慶応元年(1865)に五姓田義松(ごせだよしまつ)が
翌、慶応2年(1866)高橋由一が さらに明治7年(1874)には「最後の浮世絵師」とか「明治の広重」と評される小林 清親(こばやし きよちか)も入門しようと門戸をたたいたといわれる。
このとき由一38歳、義松は10歳、清親27歳であった。 とありました。小林清親のもとに若き安田靫彦画伯が、弟子入りするのは不思議なこと縁です。
by SILENT (2016-09-09 18:36) 

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