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十一月三十日 [光]

東京南青山の表参道付近の八百屋。なぜか山積みの果物や野菜の売り場に、梶井基次郎の作品「檸檬」を思い出した。裸電球の下並ぶ野菜を、十数年前に京都五条付近の八百屋に見たときも同じ思いを描いた。
色温度の低い赤みの電球の下の、檸檬が一つ置かれた様子は、鮮やかであるが後ろに闇を控えた店頭の姿に心揺さぶれたからなのだろうか。林檎の赤や、蜜柑のオレンジ色、果物を包む紙の透け感に、何か異次元の世界を感じ、「檸檬」という作品を思い浮かべたのだろうか。
京都と青山の光景に共通するのは、闇が店先を包んで、両隣の店の存在が見えない光景だった。それは舞台のステージの上の照明のように見えたのかもしれない。

芝居掛かった無人の果物やの店頭、小説の中の主人公が檸檬を一つだけ買ってコートのポケットに入れる。老舗書店の静まり返った積まれた書籍の上に、檸檬を一つ乗せる。
ガラス戸越しに車のヘドライトがあたり、檸檬色の仕掛けが浮かび上がる。
そんな光景をまた思い浮かべてしまった。

路地を曲がり暗い石段の上を小学生がステップを踏んで、ブティックの薄暗い照明の店内に消える。
青山の路地裏と、帽子にリボンがぶら下がった小学生のコントラスト。
昼間、東京丸善書店の洋書売り場で籠をぶら下げた三揃いのスーツを着た恰幅の良い紳士が、手当たり次第に洋書の厚いものを棚や平積みから持ち上げ、籠の中に放り投げるのを見た。何かその服装と、手荒な本を投げる行為が非常に下品に見えた。本が投げられ落下して立てる大きなドサッという音に、札束を投げる姿にも見え、何か不快な気持ちになった。
彼の背に思い切り、レモンを投げつけたい衝動になった。そのソフト帽の上にも檸檬を載せたい衝動が湧いた日だった。

その日の晩、ある写真家の方の朗読会があった。「写真を撮るのは何故ですか」と彼が十の何故と述べた中で、「写真を撮るということは、消えていくものだからです。」という強い言葉が印象に残った。
「世界は消えていくものだから」「消えていくものへは何かすべてが潜んでいるから」「そこに或るものは、消えていく」「だから写真に撮る」

夜の店頭に檸檬があったのか、よく見ないままに私は写真を撮っていた。




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            檸檬かじる少年路地へ冬の旅     無音























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