3月31日 [俳句]
長谷川かな女の句。
春の夜の襖とじたる二人哉
と、詠んだのだが、違うかな?
二人のうちの、一人がかな女では、
襖より もののけ色や春爛漫 むおん
今日は鎌倉源氏山へ花見です。車中から
春の河渡りてめざす源氏山 無音
3月30日 [旅]
3月28日 [言葉]
2011年3月の半ば、一つのプロジェクトに参加させていただいた。YOUプロジェクト。
世界中に呼びかけて東北大震災に出会った方々へのメッセージ。メールアート。
郵便という手紙や葉書で、アートする世界がある。古くはあのオノヨーコさんもメールアートに参加したとか。
50年以上前から発明されたメールアートは、世界中を飛び交う。人から人へ何度も転送され今も世界を巡るハガキや手紙もあるそうです。
半世紀前の消印に新しい切手が貼られて貴方の元に届いたらびつくりですね。参加者はアーチストだけでなく、医師や職人さん、主婦、公務員、他専業でない人々が参加しているという不思議な世界です。今は電子メールで世界に発信。そのメールアートの世界で元気を届けるトキタマさんという素敵なおばさん。
あの日の津波の映像は、凄かった。
テレビの画面の中の津波と飛び交うカモメやカラスたち。我が家も津波に遭遇したら?愛犬の怯える眼差しと、大丈夫ですよ、といった眼を、応募した。
あなたから、あなたと
今では2000通近いハガキが掲示されています。
3月27日 [物語]
花見の季節、去年から黒塗りの小さな重箱に、似あった小風呂敷で包んである、それに卵焼きでも入れて持参しようと思っている。小風呂敷かハンカチのようなその柄は利休鼠のような温かみの灰色に、霰がふるような様。
本屋で出会った、最近の心に染み入るような本。
何か今という時代が生んだ、作家の良心がとてもとても共感できる。
ネットでブログに書かれていた文章が本になった模様だが、今年一番お勧めできそうな本だ。
「断片的なものの社会学」岸政彦著 朝日出版社 だ。以下長いけど本の中から、引用。
この小石の話、なぜか心が詰まるほど共感できてしまうのです。今現在。
小学校に入る前ぐらいのときに奇妙な癖があって、道ばたに落ちている小石を適当に拾い上げ、そのたまたま拾われた石をいつまでもじっと眺めていた。私を惹きつけたのは、無数にある小石のひとつでしかないものが、「この小石」になる不思議な瞬間である。
「人生は断片的なものが集まってできている」の章から
私はいちども、それらに感情移入をしたことがなかった。名前をつけて擬人化したり、自分の孤独を投影したり、小石と自分との密かな会話を想像したりしたことも、いちどもなかった。そのへんの道ばたに転がっている無数の小石のなかから無作為にひとつを選びとり、手のひらに乗せて顔を近づけ、ぐっと意識を集中して見つめていると、しだいにそのとりたてて特徴のない小石の形、色、つや、表面の模様や傷がくっきりと浮かび上がってきて、他のどの小石とも違った、世界にたったひとつの「この小石」になる瞬間が訪れる。そしてそのとき、この小石がまさに世界のどの小石とも違うということが明らかになってくる。そのことに陶酔していたのである。
そしてさらに、世界中のすべての小石が、それぞれの形や色、つや、模様、傷を持った「この小石」である、ということの、その想像をはるかに超えた「膨大さ」を、必死に想像しようとしていた。いかなる感情移入も擬人化もないところにある、「すべてのもの」が「このこれ」であることの、その単純なとんでもなさ。そのなかで個別であることの、意味のなさ。
これは「何の意味もないように見えるものも、手にとってみるとかけがえのない固有の存在であることが明らかになる」というような、ありきたりな「発見のストーリー」なのではない。
私の手のひらに乗っていたあの小石は、それぞれかけがえのない、世界にひとつしかないものだった。そしてその世界にひとつしかないものが、世界中の路上に無数に転がっているのである。
* * *
私たちは、それぞれ「自分の人生」を生きていて、それはそのままその私たちの「全世界」でもある。しかし、私たちは、それぞれの全世界を生きながら、他人とは断片的にしかつながることができない。私たちはそれぞれ、徹底的にひとりきりのままで、自分の人生を生きるしかない。だれか他人と、一時期のあいだ「一緒に暮らす」ことはできても、その他人が、私たちの自分の人生の「中に入ってきてくれる」ことはない。そして、さらに、私たちが閉じこめられている「自分の人生」そのものも、あまりにももろい。
しかし、ふとしたきっかけでおおきく崩れさった自分の人生の廃墟から、私たちは何度も立ち上がる。そして、他者とのあいだに断片的なつながりしか作れなかったとしても、その断片的なつながりから私たちは、たとえ一瞬のあいだでも、おおきな喜びを得ることができる。
そして「笑いと自由」の章から
アーシュラ・ル=グウィンの『ゲド戦記』第4巻に、とても印象的なシーンがある。大魔法使いゲドの「伴侶」であるテナーという女性は、テルーという里子を育てている。テルーは、まだ小さな子どもだが、言葉では言えないような陰惨なことをされて、顔の半分がケロイドのようにただれている。テナーは、心に難しいところをたくさん抱えるテルーを心から愛している。もちろんその顔の傷も一緒に愛を注いでいる。
しかし、こんなシーンがある。ある夜テナーは、ぐっすりと寝ているテルーの寝顔を見ているうちに、ふと、手のひらで顔のケロイドを覆い隠す。そこには美しい肌をした子どもの寝顔があらわれる。
テナーはすぐに手を離して、何も気付かず寝ているテルーの顔の傷跡にキスをする。
笑いとはあまり関係のないシーンだが、私はこのシーンに、私がここで言いたかったことがすべて描かれていると思う。テナーはテルーの傷跡もふくめて、その全てを愛している。でも、あるときふと、その傷跡を手で隠して、きれいな顔のテルーを想像する。それは誰にも知られない、ほんの一瞬のことだが、この描写によって、ありのままのかけがえのないものをすべて受け入れるテナーの愛情から、あらゆるきれいごとや建前がきれいに消されている。
ある種の笑いというものは、心のいちばん奥にある暗い穴のようなもので、なにかあると私たちはそこに逃げ込んで、外の世界の嵐をやりすごす。そうやって私たちは、バランスを取って、かろうじて生きている。
何かこの本は何ども読みたくなる光景が詰まっている気がします。著者は社会学者1967年生まれ
法然と岸政彦の春を買い むおん
本屋で出会った、最近の心に染み入るような本。
何か今という時代が生んだ、作家の良心がとてもとても共感できる。
ネットでブログに書かれていた文章が本になった模様だが、今年一番お勧めできそうな本だ。
「断片的なものの社会学」岸政彦著 朝日出版社 だ。以下長いけど本の中から、引用。
この小石の話、なぜか心が詰まるほど共感できてしまうのです。今現在。
小学校に入る前ぐらいのときに奇妙な癖があって、道ばたに落ちている小石を適当に拾い上げ、そのたまたま拾われた石をいつまでもじっと眺めていた。私を惹きつけたのは、無数にある小石のひとつでしかないものが、「この小石」になる不思議な瞬間である。
「人生は断片的なものが集まってできている」の章から
私はいちども、それらに感情移入をしたことがなかった。名前をつけて擬人化したり、自分の孤独を投影したり、小石と自分との密かな会話を想像したりしたことも、いちどもなかった。そのへんの道ばたに転がっている無数の小石のなかから無作為にひとつを選びとり、手のひらに乗せて顔を近づけ、ぐっと意識を集中して見つめていると、しだいにそのとりたてて特徴のない小石の形、色、つや、表面の模様や傷がくっきりと浮かび上がってきて、他のどの小石とも違った、世界にたったひとつの「この小石」になる瞬間が訪れる。そしてそのとき、この小石がまさに世界のどの小石とも違うということが明らかになってくる。そのことに陶酔していたのである。
そしてさらに、世界中のすべての小石が、それぞれの形や色、つや、模様、傷を持った「この小石」である、ということの、その想像をはるかに超えた「膨大さ」を、必死に想像しようとしていた。いかなる感情移入も擬人化もないところにある、「すべてのもの」が「このこれ」であることの、その単純なとんでもなさ。そのなかで個別であることの、意味のなさ。
これは「何の意味もないように見えるものも、手にとってみるとかけがえのない固有の存在であることが明らかになる」というような、ありきたりな「発見のストーリー」なのではない。
私の手のひらに乗っていたあの小石は、それぞれかけがえのない、世界にひとつしかないものだった。そしてその世界にひとつしかないものが、世界中の路上に無数に転がっているのである。
* * *
私たちは、それぞれ「自分の人生」を生きていて、それはそのままその私たちの「全世界」でもある。しかし、私たちは、それぞれの全世界を生きながら、他人とは断片的にしかつながることができない。私たちはそれぞれ、徹底的にひとりきりのままで、自分の人生を生きるしかない。だれか他人と、一時期のあいだ「一緒に暮らす」ことはできても、その他人が、私たちの自分の人生の「中に入ってきてくれる」ことはない。そして、さらに、私たちが閉じこめられている「自分の人生」そのものも、あまりにももろい。
しかし、ふとしたきっかけでおおきく崩れさった自分の人生の廃墟から、私たちは何度も立ち上がる。そして、他者とのあいだに断片的なつながりしか作れなかったとしても、その断片的なつながりから私たちは、たとえ一瞬のあいだでも、おおきな喜びを得ることができる。
そして「笑いと自由」の章から
アーシュラ・ル=グウィンの『ゲド戦記』第4巻に、とても印象的なシーンがある。大魔法使いゲドの「伴侶」であるテナーという女性は、テルーという里子を育てている。テルーは、まだ小さな子どもだが、言葉では言えないような陰惨なことをされて、顔の半分がケロイドのようにただれている。テナーは、心に難しいところをたくさん抱えるテルーを心から愛している。もちろんその顔の傷も一緒に愛を注いでいる。
しかし、こんなシーンがある。ある夜テナーは、ぐっすりと寝ているテルーの寝顔を見ているうちに、ふと、手のひらで顔のケロイドを覆い隠す。そこには美しい肌をした子どもの寝顔があらわれる。
テナーはすぐに手を離して、何も気付かず寝ているテルーの顔の傷跡にキスをする。
笑いとはあまり関係のないシーンだが、私はこのシーンに、私がここで言いたかったことがすべて描かれていると思う。テナーはテルーの傷跡もふくめて、その全てを愛している。でも、あるときふと、その傷跡を手で隠して、きれいな顔のテルーを想像する。それは誰にも知られない、ほんの一瞬のことだが、この描写によって、ありのままのかけがえのないものをすべて受け入れるテナーの愛情から、あらゆるきれいごとや建前がきれいに消されている。
ある種の笑いというものは、心のいちばん奥にある暗い穴のようなもので、なにかあると私たちはそこに逃げ込んで、外の世界の嵐をやりすごす。そうやって私たちは、バランスを取って、かろうじて生きている。
何かこの本は何ども読みたくなる光景が詰まっている気がします。著者は社会学者1967年生まれ
法然と岸政彦の春を買い むおん
3月26日 [花]
コダックのベス単フード外しといった、クラシックカメラのレンズが春が来ると出動する。
私にとって「花のレンズ」花には光が滲む最高のレンズだ。
ゲーテが、色は光だ といったそうだ。
闇の色である藍と、光の色である黄が結ばれると緑が生まれる。
確かに染色では木々の葉や枝や根で染めても、緑という色には染まらない。
藍染めの際、甕から引き出された糸や布が一瞬緑に輝くが青く変化する。
かって日本では染色屋さんは、色ごとに専門で発達し、藍屋、紺屋、茶屋、晒し屋と専業化して色を極めていたという。染料の材料や工程の合理化などで色分けされたのだろうか。
白という色の世界も、生成りの生地のままの色を晒して、白くする晒し屋という染色屋が存在した。
白に染めることは、何か不思議な世界だ。
古代木の扱いも黒木が最初だったという。黒木とは皮の付いたままの木の世界だろうか。
その木が皮を剥かれ、白木となり尊ばれるようになった。おまけに西洋ではそれに白ペンキを塗る世界にまでなった。
花のレンズで以下今日の光の記録です
駐車場の滲む世界
光が滲むSCで
風にも滲む葉影
公園の一輪のバラの滲み
紅い赤い滲み
アケビの蔓も滲む
路地裏の滲むスミレ
以下 春の滲み
桜の滲み
牛乳瓶そこから覗く春の唄 ムオン
私にとって「花のレンズ」花には光が滲む最高のレンズだ。
ゲーテが、色は光だ といったそうだ。
闇の色である藍と、光の色である黄が結ばれると緑が生まれる。
確かに染色では木々の葉や枝や根で染めても、緑という色には染まらない。
藍染めの際、甕から引き出された糸や布が一瞬緑に輝くが青く変化する。
かって日本では染色屋さんは、色ごとに専門で発達し、藍屋、紺屋、茶屋、晒し屋と専業化して色を極めていたという。染料の材料や工程の合理化などで色分けされたのだろうか。
白という色の世界も、生成りの生地のままの色を晒して、白くする晒し屋という染色屋が存在した。
白に染めることは、何か不思議な世界だ。
古代木の扱いも黒木が最初だったという。黒木とは皮の付いたままの木の世界だろうか。
その木が皮を剥かれ、白木となり尊ばれるようになった。おまけに西洋ではそれに白ペンキを塗る世界にまでなった。
花のレンズで以下今日の光の記録です
駐車場の滲む世界
光が滲むSCで
風にも滲む葉影
公園の一輪のバラの滲み
紅い赤い滲み
アケビの蔓も滲む
路地裏の滲むスミレ
以下 春の滲み
桜の滲み
牛乳瓶そこから覗く春の唄 ムオン
3月25日 [花]
花といえば桜、この町には西行法師ゆかりの鴫立庵がある。法師が「願わくは花の下にて、、望月のころ」と歌った望月のころに、非常に重要な鍵があることに最近気づいた。なぜ望月(満月)の頃とまでこだわった歌なのかが。
『サヨナラ民芸。こんにちは民藝。』里文出版を読んだ中で、染色家の志村ふくみさんが、満開の桜の話をされている。志村さんのお嬢さんが或る日、藍の調子が悪いので甕の中を覗き込んでいたら、月の光が差し込んだ甕の中が赤かったという話を聞いて、志村さんは、月と桜の潮の満ち干で起こる旧暦が大事なことが分かったという。藍も生きている、桜も生きている、赤子の誕生も月の満ち干に大変影響されると聞いた。満月の晩の桜は一番見事なのだと植木職人の棟梁はいうという。
満開の桜を我が家から見ていたが、真下に行ってみようと桜の樹の下まで行ってみた。仰ぎ見る桜は大島桜か、山桜の見事な白と新芽の緑だった。
高麗山にも出かけた中腹に満開の桜、こちらも山桜系だろう。頼朝が鎌倉から馬で来てみた花もこの山の山桜だったのだろう。彼は花が見られず鎌倉に帰り、麓の河が今も花水川と言われている。
騎馬数騎はなを見ずして花と散り 無音
さまざまなこと思い出す桜かな 芭蕉
『サヨナラ民芸。こんにちは民藝。』里文出版を読んだ中で、染色家の志村ふくみさんが、満開の桜の話をされている。志村さんのお嬢さんが或る日、藍の調子が悪いので甕の中を覗き込んでいたら、月の光が差し込んだ甕の中が赤かったという話を聞いて、志村さんは、月と桜の潮の満ち干で起こる旧暦が大事なことが分かったという。藍も生きている、桜も生きている、赤子の誕生も月の満ち干に大変影響されると聞いた。満月の晩の桜は一番見事なのだと植木職人の棟梁はいうという。
満開の桜を我が家から見ていたが、真下に行ってみようと桜の樹の下まで行ってみた。仰ぎ見る桜は大島桜か、山桜の見事な白と新芽の緑だった。
高麗山にも出かけた中腹に満開の桜、こちらも山桜系だろう。頼朝が鎌倉から馬で来てみた花もこの山の山桜だったのだろう。彼は花が見られず鎌倉に帰り、麓の河が今も花水川と言われている。
騎馬数騎はなを見ずして花と散り 無音
さまざまなこと思い出す桜かな 芭蕉
3月24日 [光]
朝のテレビ画面を見ていて、妙に画面がハイキーに見える。白い部分が多いのだ。
デジカメのレンズで捉えた明るめのレンズによる、光を拾いすぎる現象なのか、受像モニターの輝度調整のせいなのか、こちらの視力の低下なのか、兎に角画面が明るすぎる。光の白の再生は、画素が電気で再現され、黒は光がない世界。反対に物質の紙の世界は、紙のままの白の世界と、黒インクや黒の顔料をたっぷり使っての黒の世界で、真逆になる。
テレビの白が多いハイキーの世界は、平和志向なのか、エネルギー消費志向なのか、バブリーな印象が強い。光を過剰に求めすぎている様な世界は、印刷物にも感じる。彩度が高く、ハイキーで明度も高い表現が多い。過剰なほどの光と、明るいレンズで捉えた世界が充満している気がしてくる。影のない世界。影と陰を封じ込めた虚像の世界。
電話会社のパンフレットを見ていて考えた。
ネット+電話+テレビ=でお得の、、、、円
自分はネットで何しているの、電話はどれだけ架けてるの、テレビは今時どんな為になる情報が。
若者や、そんなに豊かでない国の人達はスマホ一台で上の三つはいらない世界。
情報過多の現代、ダブったツールは必要ない。ミニマリズムに暮らそうかとふと思います。
ガラケー1台、スマホ1台、タブレット2台、テレビ1台、固定電話子機付き1台、パソコン2台、フィルムカメラ6台、デジカメ5台、でもそれぞれの機種に愛着困ったものです。
デジカメのレンズで捉えた明るめのレンズによる、光を拾いすぎる現象なのか、受像モニターの輝度調整のせいなのか、こちらの視力の低下なのか、兎に角画面が明るすぎる。光の白の再生は、画素が電気で再現され、黒は光がない世界。反対に物質の紙の世界は、紙のままの白の世界と、黒インクや黒の顔料をたっぷり使っての黒の世界で、真逆になる。
テレビの白が多いハイキーの世界は、平和志向なのか、エネルギー消費志向なのか、バブリーな印象が強い。光を過剰に求めすぎている様な世界は、印刷物にも感じる。彩度が高く、ハイキーで明度も高い表現が多い。過剰なほどの光と、明るいレンズで捉えた世界が充満している気がしてくる。影のない世界。影と陰を封じ込めた虚像の世界。
電話会社のパンフレットを見ていて考えた。
ネット+電話+テレビ=でお得の、、、、円
自分はネットで何しているの、電話はどれだけ架けてるの、テレビは今時どんな為になる情報が。
若者や、そんなに豊かでない国の人達はスマホ一台で上の三つはいらない世界。
情報過多の現代、ダブったツールは必要ない。ミニマリズムに暮らそうかとふと思います。
ガラケー1台、スマホ1台、タブレット2台、テレビ1台、固定電話子機付き1台、パソコン2台、フィルムカメラ6台、デジカメ5台、でもそれぞれの機種に愛着困ったものです。