01月29日 [俳句]
俳句は、連句の最初の発句が独立して、17文字の世界になったそうだ。連句の世界は、連歌という和歌の世界から派生し、和歌は長歌という中国古代の世界から伝わって変化して来たという。
確かに長歌が短歌となり、俳句まで繋がる歴史面白い。
世界は短い言葉で動くようになつているのか。膨大なデータより、一言呟く世界が最大の影響を与える。壁を築く事や、強い国家、進歩、明るい未来を目指す。
理性よりも感情が先走る。理性と感性は天秤にかけるものではなく、表裏の関係にあるはずだ。
刹那的な世界観がはびこり、長い歴史を忘れた世界は、醜く、寂しい。
一週間は速いものです。何か書きたいことも書ききれません。様々な愛しい時間、愛しい出会いがあったことだけは確かです。松尾芭蕉は、連句の世界の決まりごとに、後には戻るな!繰り返すな!と連なる句の世界の覚悟を言っています。素晴らしい覚悟です。
当たり前の世界観なのですが。
過去の栄光は、決して繰り返さないのです。明日はわからないから素敵なのですね。冬の終わりは、必ず来る事信じています。抽象的な事ばかり書き込みました。今は冬の時代なのか。
庭先に苔の緑が春の予感です。ここ一週間でフキノトウを10個近く散歩の道すがら見かけました。
ポケットに蕗の薹あり空燃えて 無音
01月22日 [雲]
01月15日 [海]
昨夜の左義長の後の海岸がどうなったか、夕方浜に出た。白い煙がまだ夕方のサイトの後に立ち上っている。昨年は朝方燃えかすが砂になじむように消えていた。今年はサイトの材料が多かったか材質が違うものがあったのか長く燃え残っていたようだ。
昨夜の点火時間の6時半には今年の恵方方に火が放たれた。
火の勢いが最高潮い達するころ、そりと呼ばれる上に藁で編まれた道祖神さんの小さな社が裸の男たちに引かれてやってくる。男たちは海にそのまま入り、そのそりを陸の連中が綱引きのように引き上げる。この綱を引くと一年が良いことが起きる魁となるという。海の中の男たちは魚にも見立てられ引き上げられると大漁という、漁師町の願いが込められているともいう。あいにくの雪雲で空に月はないが、満月周辺のこの日九州や、朝鮮半島でも綱引きが行われる風習がある場所があり、あったという。
何か遠い昔から様々な願いや、風習が混ざり今ある行事に繋がってきたのだろう。
海に入った男たちはソリを引き燃え盛る火の中に社を手荒く放り込む、足で蹴り、社を潰すまで、何回も同じ動作を繰り返す。何か身代わりとなって社の中の魂が炎と一緒に天に舞い登らせる所作のようだ。この所作は「ヤンナゴッコ」と呼ばれるそうだ。裸の男たちは昔は子供達の役割だったともいう。
昔の写真では小学生くらいの男の子たちがソリに乗るものもある。
道祖神が身代わりになり火の中に入るという行事が、茅ヶ崎でもあって石の道祖神さんはもろくなり何度も作り直したという話も聞いた。道祖神をめぐる祭りは昔は子供達が大人になるための試練として子供中心で行われたという。一つの祭りが大人への窓口でもあったのだろう。
集落の提灯の灯りが何か日の祭りにふさわしく頼もしく見える。
燠火に近くなると近所の慣れた人々が団子を焼きにやってくる。何か遠い日の絵巻物のような光景にも見えた。そう青木繁の名作漁を終えて浜に上がる人たちの姿に、団子の竿を掲げる人たちが見た夜だった。
昨夜の点火時間の6時半には今年の恵方方に火が放たれた。
火の勢いが最高潮い達するころ、そりと呼ばれる上に藁で編まれた道祖神さんの小さな社が裸の男たちに引かれてやってくる。男たちは海にそのまま入り、そのそりを陸の連中が綱引きのように引き上げる。この綱を引くと一年が良いことが起きる魁となるという。海の中の男たちは魚にも見立てられ引き上げられると大漁という、漁師町の願いが込められているともいう。あいにくの雪雲で空に月はないが、満月周辺のこの日九州や、朝鮮半島でも綱引きが行われる風習がある場所があり、あったという。
何か遠い昔から様々な願いや、風習が混ざり今ある行事に繋がってきたのだろう。
海に入った男たちはソリを引き燃え盛る火の中に社を手荒く放り込む、足で蹴り、社を潰すまで、何回も同じ動作を繰り返す。何か身代わりとなって社の中の魂が炎と一緒に天に舞い登らせる所作のようだ。この所作は「ヤンナゴッコ」と呼ばれるそうだ。裸の男たちは昔は子供達の役割だったともいう。
昔の写真では小学生くらいの男の子たちがソリに乗るものもある。
道祖神が身代わりになり火の中に入るという行事が、茅ヶ崎でもあって石の道祖神さんはもろくなり何度も作り直したという話も聞いた。道祖神をめぐる祭りは昔は子供達が大人になるための試練として子供中心で行われたという。一つの祭りが大人への窓口でもあったのだろう。
集落の提灯の灯りが何か日の祭りにふさわしく頼もしく見える。
燠火に近くなると近所の慣れた人々が団子を焼きにやってくる。何か遠い日の絵巻物のような光景にも見えた。そう青木繁の名作漁を終えて浜に上がる人たちの姿に、団子の竿を掲げる人たちが見た夜だった。
01月14日 [海]
01月14日 [色]
01月13日 [色]
新入社員のデザイナーの卵に、課せられた仕事は朝一番で横浜工場の染色課から送られてきた糸の色が、オリジナルの色の糸と同じか電話をすることだった。此れは「検色作業」と呼ばれ、染色のロットでオリジナルから色がぶれていないかジャッジする仕事だった。茶色でも様々な広がりがあり、オリジナルから赤味が足りないとか、少し彩度をあげて10パーセント明るくとか、染め直す指示を出す場合もあった。電話で微妙なニュアンスを言葉で伝えるのは難しい。
検色作業は午前中に限られた。
光の条件が午後には赤味になったり刻々と変わるからだ。検色環境も北窓の白い部屋があればいいのだが。
老人になると見えるいろが赤味が加わるなどと個人差もでる話も聞いた。
ならば機械で計測したらばと調べるとミノルタでカラーを数値化する機器を出していた。印刷の紙の上の色の測定で、素材がナイロンとか、麻とか、アクリルと異なると測定が難しいことがわかった。
素材色というものがあることも知った。絹の赤が美しい深みがあるのに、その赤をナイロンやポリエステルの素材に同じ赤を求めても難しい。
染め直しを何回か繰り返し、黒に染めると色が重なって深みが出る。一度だけで染めた黒とは深みの幅が違う。
染色の世界の奥深さを知ったのもいい経験だった。
晒しは白く染めるということで、日に晒して白さを作り出したという。
晒屋という生成りを白に染めるだけの染色屋や、藍染だけの紺屋、茶色だけの染め屋も、それぞれあったことを知った。
染色工場へ、色見本となる糸や、布の切れ端または、色の紙を送ることを、「色出し」と言った。海外から色見本が送られて来た時、三センチ四方の小さなものもあった。染色工場が三箇所で控えをとると、色見本は、四分の1になる。そんな小さな色見本で、染めてもらった事は申し訳ないと思っている。今ならデジタルのカラー指示が可能かもしれないが、モニターのキャリブレーションすることは必須だろう。
今日は下町の左義長を見に出かけた。江戸の中頃には盛んな行事となつたという、道祖神の祭りだ。明日は海岸で大きな聖塔が九つ作られ火が放たれる。天高く左義長の火の滝祷り
01月10日 [世界]
何か急に50年前ほどの世界を思い出したくなり、書き始めました。高校を卒業して東京の繊維会社のデザイン部門に入社しました。当時はミニスカートの旋風が世界に吹き荒れ始めた時でした。マリー・クアントとアンドレ・クレージュの二人が広めた世界だったと思います。
宇宙的な世界観が半世紀前には求められ、前衛的なスタイルがファッションだけでなくても求められていたのかもしれません。建築や工業デザインでも前衛的な近未来のスタイルが求められ、数年後に大阪万博、学生時代にはあの東京オリンピックも開催されていたからでしょう。
十代で会社に入って何か、若者でしか出来ない発想と、未完成なものを求められました。結構何でもやっていいというのは困ることでした。何か徒弟制度のような世界を求めて入った自分に合っている世界なのかが皆目分からない状態でした。
入社の前に約一ヶ月の研修がありました。今思えば贅沢な一ヶ月です。最初は繊維関係の会社の全国繊維同盟という組合の合同入社式。東京上野の文化会館で多勢の新入社員と一緒の式典です。
壇上の電気会社の会長さんか社長が話したことを今でも覚えています。鉄道の線路でその運行を守るために命がけで鉄路を守った人の話、なぜか仕事とは感動的な世界なんだという当時の年齢の私には胸が締め付けられる話でした。その後自家工場のある、横浜と浜松で各二週間の合宿がありました。
こんなことを書き込みたくなったのも数日前に成人式があったからかもしれません。
成人式は覚えていないが、社会に出た19歳の春の出来事が何か懐かしく覚えたからです。
会社に入ってデザインらしきものを初めて最初に驚いたことが、デザインして鉛筆で描かれたものを、も一枚そっくりに写して描く作業です。鉛筆で描くといっても鋭く尖らして、面を塗るとムラが出ます。何故写すのかというとコピー機というものが当時はなかったからです。ゼロックスという機械は随分経ってから会社でも導入されました。
デザインの時間が製作とコピーで二倍もかかる。そんな時代だったのです。
馬鹿らしくなってカーボン用紙を二枚の紙の間に入れて描き始めたら、上司が怒りました。
なんでそんな手抜きのことをするんだ!信じられない世界です。
職人的に丁寧な原稿を二枚作る。そんな世界でした。
当時は交換手の女性たちが会社内に3−4人いて、電話も申し込みの紙を窓口に出す方式でした。
入社当時机の前の電話がなると、頭が真っ白になって受話器を取るのが怖い状態でした。
相手が何を言っているのか、早口でわからないといった状態でした。
何かすぐ昨日のような話にも思えてきますが、半世紀前の話です。
宇宙的な世界観が半世紀前には求められ、前衛的なスタイルがファッションだけでなくても求められていたのかもしれません。建築や工業デザインでも前衛的な近未来のスタイルが求められ、数年後に大阪万博、学生時代にはあの東京オリンピックも開催されていたからでしょう。
十代で会社に入って何か、若者でしか出来ない発想と、未完成なものを求められました。結構何でもやっていいというのは困ることでした。何か徒弟制度のような世界を求めて入った自分に合っている世界なのかが皆目分からない状態でした。
入社の前に約一ヶ月の研修がありました。今思えば贅沢な一ヶ月です。最初は繊維関係の会社の全国繊維同盟という組合の合同入社式。東京上野の文化会館で多勢の新入社員と一緒の式典です。
壇上の電気会社の会長さんか社長が話したことを今でも覚えています。鉄道の線路でその運行を守るために命がけで鉄路を守った人の話、なぜか仕事とは感動的な世界なんだという当時の年齢の私には胸が締め付けられる話でした。その後自家工場のある、横浜と浜松で各二週間の合宿がありました。
こんなことを書き込みたくなったのも数日前に成人式があったからかもしれません。
成人式は覚えていないが、社会に出た19歳の春の出来事が何か懐かしく覚えたからです。
会社に入ってデザインらしきものを初めて最初に驚いたことが、デザインして鉛筆で描かれたものを、も一枚そっくりに写して描く作業です。鉛筆で描くといっても鋭く尖らして、面を塗るとムラが出ます。何故写すのかというとコピー機というものが当時はなかったからです。ゼロックスという機械は随分経ってから会社でも導入されました。
デザインの時間が製作とコピーで二倍もかかる。そんな時代だったのです。
馬鹿らしくなってカーボン用紙を二枚の紙の間に入れて描き始めたら、上司が怒りました。
なんでそんな手抜きのことをするんだ!信じられない世界です。
職人的に丁寧な原稿を二枚作る。そんな世界でした。
当時は交換手の女性たちが会社内に3−4人いて、電話も申し込みの紙を窓口に出す方式でした。
入社当時机の前の電話がなると、頭が真っ白になって受話器を取るのが怖い状態でした。
相手が何を言っているのか、早口でわからないといった状態でした。
何かすぐ昨日のような話にも思えてきますが、半世紀前の話です。
01月06日 [本]
01月04日 [写真]
PCの画像の中にフィルム時代の画像が紛れていた。スライドで残っていたモノクロの写真だが昭和30年台後半か40年前半だろう。祖母が庭先で縫い物をしている一枚だ。1960年代として今から50年前の光景。陽だまりで祖母は空き缶の中に収めた裁縫道具で布を接ぎ合わせた座布団の繕いをしている。
奥の板囲は温室代わりの霜除で植木鉢の植物を入れていた記憶がある。これもあり合わせのトタン板や木っ端で作られている。家の周りもブリキのトタンで台所周辺はコールタールの黒を塗っていたようだ。
履物は下駄か木の草履で、祖母は着物の時が多かった。
2016年の年末、昨年の暮れにはAmazonテレビで映画「フラガール」を観た。常磐炭鉱が閉鎖される直前の昭和40年代が映画の時代考証で描かれ、ボタ山と炭鉱の町が日本のハワイへ千円で行かれ、フラダンスが観れるという一大施設の建設の物語と、その主役となるフラガールの少女たちの話だった。凄まじいほどの炭鉱労働者の家の中の破れ障子や、黄ばんだ襖のある室内に、少女たちの綻びたセーターや着ているもの。何か薄汚れ過ぎている演出と感じたが、実際は近かったのかもしれない。
映画の中で常磐炭鉱から夕張の炭鉱へ移住する家族のシーンが泣けた。今は石炭から石油へ、そして原子力から次へのエネルギーへ移行の時代。
明治生まれの東北出身の祖母は、郷里では尋常小学校へも行かしてもらえず、子守ばかりさせられていたという。読み書きができなかったので、一人娘だけは女学校へあげたいと軍港の縫製工場で働きミシンを習い、日清日露戦争の兵隊さんたちの軍服を女工の一人として縫い続けたという。
大正元年生まれの一人娘の母は、女学校に入りテニスやドッジボールをして、友人たちと勉学に励んだという、日本の武道として、薙刀や弓道も授業にあったという。昭和の初めの話で海軍の水兵の男性を婿養子に迎えたという。
祖母からは戦争時代の話はあまり聞かなかった。小学校に上がれなかったけど新聞は大好きで、小学生になった私はよく読むようにと言われ、縁側で祖母に新聞の題字や、読める範囲での解説をした。
数年前、東京に住むおばさんが、自分の祖母には昔非常に世話になったと言われ「おしん」のような耐え忍び、人の面倒は深くしてくれ深みのある人だったと感謝された。祖母が言っていた呪文おような言葉を思い出した。『上みりゃ切なし、下みりゃ切なし』
おしんの時代、すぐそこにあった時代と思う年齢に達しました。
奥の板囲は温室代わりの霜除で植木鉢の植物を入れていた記憶がある。これもあり合わせのトタン板や木っ端で作られている。家の周りもブリキのトタンで台所周辺はコールタールの黒を塗っていたようだ。
履物は下駄か木の草履で、祖母は着物の時が多かった。
2016年の年末、昨年の暮れにはAmazonテレビで映画「フラガール」を観た。常磐炭鉱が閉鎖される直前の昭和40年代が映画の時代考証で描かれ、ボタ山と炭鉱の町が日本のハワイへ千円で行かれ、フラダンスが観れるという一大施設の建設の物語と、その主役となるフラガールの少女たちの話だった。凄まじいほどの炭鉱労働者の家の中の破れ障子や、黄ばんだ襖のある室内に、少女たちの綻びたセーターや着ているもの。何か薄汚れ過ぎている演出と感じたが、実際は近かったのかもしれない。
映画の中で常磐炭鉱から夕張の炭鉱へ移住する家族のシーンが泣けた。今は石炭から石油へ、そして原子力から次へのエネルギーへ移行の時代。
明治生まれの東北出身の祖母は、郷里では尋常小学校へも行かしてもらえず、子守ばかりさせられていたという。読み書きができなかったので、一人娘だけは女学校へあげたいと軍港の縫製工場で働きミシンを習い、日清日露戦争の兵隊さんたちの軍服を女工の一人として縫い続けたという。
大正元年生まれの一人娘の母は、女学校に入りテニスやドッジボールをして、友人たちと勉学に励んだという、日本の武道として、薙刀や弓道も授業にあったという。昭和の初めの話で海軍の水兵の男性を婿養子に迎えたという。
祖母からは戦争時代の話はあまり聞かなかった。小学校に上がれなかったけど新聞は大好きで、小学生になった私はよく読むようにと言われ、縁側で祖母に新聞の題字や、読める範囲での解説をした。
数年前、東京に住むおばさんが、自分の祖母には昔非常に世話になったと言われ「おしん」のような耐え忍び、人の面倒は深くしてくれ深みのある人だったと感謝された。祖母が言っていた呪文おような言葉を思い出した。『上みりゃ切なし、下みりゃ切なし』
おしんの時代、すぐそこにあった時代と思う年齢に達しました。
01月03日 [アート]
一年一度のアート作品と36年前の自作の年賀状がとってありました。厚紙をカッターナイフで切り抜き、ひっくり返した面に絵の具を乗せて擦った1981年の賀状です。
同じ年、友人が力強い二色刷りの賀状をくれました。二人ともこの時代は、丁寧な仕事をしていたなと感じます。
24年前の1993年の自作の賀状です。多色刷りの木版で、深みが増しました。
友人の同年の賀状で、彼の鳥は羽を毟られ諧謔味に溢れます。画像は逆さになりました。天地を逆にご覧ください。
何故か12年前の賀状は無くて、今年2017年の自作のゴム版賀状です。
段々シンプルになり、手抜きともいえます。
友人の今年の賀状もパンチがあります。一色刷りも効果的ですね。
並べてみて時の推移を感じます。何故かなかつた12年前の賀状がなんだったか気になります。一斉メールで画像だけ送ったような気もしますが、紙の賀状はやはり良いなと、黄ばみのある葉書を見つめています。