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01月04日 [写真]

PCの画像の中にフィルム時代の画像が紛れていた。スライドで残っていたモノクロの写真だが昭和30年台後半か40年前半だろう。祖母が庭先で縫い物をしている一枚だ。1960年代として今から50年前の光景。陽だまりで祖母は空き缶の中に収めた裁縫道具で布を接ぎ合わせた座布団の繕いをしている。
奥の板囲は温室代わりの霜除で植木鉢の植物を入れていた記憶がある。これもあり合わせのトタン板や木っ端で作られている。家の周りもブリキのトタンで台所周辺はコールタールの黒を塗っていたようだ。
履物は下駄か木の草履で、祖母は着物の時が多かった。

2016年の年末、昨年の暮れにはAmazonテレビで映画「フラガール」を観た。常磐炭鉱が閉鎖される直前の昭和40年代が映画の時代考証で描かれ、ボタ山と炭鉱の町が日本のハワイへ千円で行かれ、フラダンスが観れるという一大施設の建設の物語と、その主役となるフラガールの少女たちの話だった。凄まじいほどの炭鉱労働者の家の中の破れ障子や、黄ばんだ襖のある室内に、少女たちの綻びたセーターや着ているもの。何か薄汚れ過ぎている演出と感じたが、実際は近かったのかもしれない。
映画の中で常磐炭鉱から夕張の炭鉱へ移住する家族のシーンが泣けた。今は石炭から石油へ、そして原子力から次へのエネルギーへ移行の時代。

明治生まれの東北出身の祖母は、郷里では尋常小学校へも行かしてもらえず、子守ばかりさせられていたという。読み書きができなかったので、一人娘だけは女学校へあげたいと軍港の縫製工場で働きミシンを習い、日清日露戦争の兵隊さんたちの軍服を女工の一人として縫い続けたという。

大正元年生まれの一人娘の母は、女学校に入りテニスやドッジボールをして、友人たちと勉学に励んだという、日本の武道として、薙刀や弓道も授業にあったという。昭和の初めの話で海軍の水兵の男性を婿養子に迎えたという。

祖母からは戦争時代の話はあまり聞かなかった。小学校に上がれなかったけど新聞は大好きで、小学生になった私はよく読むようにと言われ、縁側で祖母に新聞の題字や、読める範囲での解説をした。
数年前、東京に住むおばさんが、自分の祖母には昔非常に世話になったと言われ「おしん」のような耐え忍び、人の面倒は深くしてくれ深みのある人だったと感謝された。祖母が言っていた呪文おような言葉を思い出した。『上みりゃ切なし、下みりゃ切なし』

おしんの時代、すぐそこにあった時代と思う年齢に達しました。

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