04月22日 [世界]
「人間はひとりひとり新しい生命を持って生まれてくるが、ことばは歴史的社会的に存在している」国分一太郎さんの言葉だそうだが、なぜか言葉の重みが伝わってくる。それは、話し言葉であれ、活字になったものであれ大事な存在感を感じる。受け継がれていくもの受け継ぎをしたい大切なものとしての言葉。
数年前の東京は新宿南口の光景、たくさんの人々が行き交う横断歩道の光景。
この光景のある百年前の光景はどうだったのだろうか、そのまた百年前の光景は、1,000年前の光景はどうだったのかと想像した。その時代その時代で生き物たちは必死に当たり前に生活を全うしてきたのだろうが。
冒頭の国分一太郎さんの言葉は、旋盤工作家の小関智弘さんの本から見つけた。もう一つ同書「町工場で本を読む」現代書館 から、ハッとする頁があった。以下引用
-----場にこだわる----- 私の小説作法と図書館 から 最近では成田かもしれないけど、羽田あるいはHANEDAなども記号化されやすい場の一つだろう。国際空港としての成田があって、農民や過激派の闘争としての成田もあるようには、羽田は複雑ではなかったと、ほとんどの日本人は信じていたから、羽田あるいはHANEDAは、戦後日本の空の玄関として記号化され、世界中に通用した。
中略
いまはオペレーションセンターや広大な駐車場なっている敷地は、敗戦の夏までは、羽田鈴木町、羽田穴守町、羽田江戸見町という町であった。米軍が空港を占領して、48時間以内に強制退去という命令が出て、三千人ほどの住民は町を失った。わたしは今かってあったこの町の慰安所のことを書こうとしていた。戦前までその風光と穴守稲荷の信仰で賑わった穴守町に、戦時中のほんのいっとき、銃後の労働者である産業戦士の性の捌け口として、慰安所がつくられた。花街があったことは多くの人の記憶に新しかったが、そこがいっときそういう変身をとげたことを知る人は少なかった。かっての住民さえ知らないか、口を噤んだ。昔の町を懐かしむ人には出会えても、町の恥部は語りたがらない。
昭和十九年六月、穴守の慰安施設特別認可なる。穴守町七百五十番地付近六千五百坪を、産業戦士に対する慰安施設として臨時視唱黙認地域を認可(『蒲田警察50年誌』)
地元の図書館でなければ決して保存してなかった資料の、わずか3行がなかったら私の小説は書かれなかった。黙認地域を認可するという語句の曖昧さに出会えなければ、その小説は場が決められても、作品として展開することがなかったかもしれない。1990年7月
著者が場にこだわらなければ、普遍的な価値などというものは信じられないという言葉が重みを持つ。
三角形の屋根が並ぶ光景、上記の文と、羽田とは無関係の光景です。東海道新幹線で小田原の手前北側の山の斜面に出現する光景なのですが。
小関智弘さんの、羽田という町の戦前、戦後間もなくの出来事は今から70年前の光景です。その出来事に町から48時間以内の強制退去ということが、福島原発事故の避難の人たちの光景と重なりました。住み慣れた町を離れ、二度と帰れない町。福島原発という場にも原発以前の歴史が横たわっています。
産業戦士の慰安所も全国に黙認されたのでしょう。その慰安婦の人たちがどこから来て、どうなったか。産業戦士の人たちの顔も、自分には遠い存在のように思えますが、父は川崎という町の隣の横浜で生まれこの産業戦士の一員となり戦後間も無く亡くなりました。
現在住んでいる町には、京浜工業地帯を埋め立てる構想をし、実現させた安田善次郎という実業家の別荘が近所にあります。彼が釣り船で糸を垂らし海底の深さを自ら測った東京湾と羽田の光景、なぜか目に浮かんでくるのです。
自分たちが小さかった頃、大人の世界は大きく見えました。
大きくなって周りの世界が小さくなって見えた頃
大人と小人の世界の境は何か考えました
その境はいつでも行き来できる世界のようにも感じます
なぜなら自分の中にいつまでも小人の世界があるからです
桜の花びら踏んでも音はしない せきしろ
蝉の羽に名前を書いて空に放した 又吉直樹
うきあがる埃が舞う動きを凝視 むおん
ふた昔の夏の色 むおん
どれか手にとって欲しいとか言われ むおん
キーボードの音が夏 むおん
ころげだすレンズの裏から むおん
カキフライが無いなら来なかった 又吉直樹