05月28日 [花]
先日小田原のフラワーガーデンへ出かけた。フラワーセンターやフラワーガーデンと紛らわしいなの植物園が県内でも多いのだが。こちらは小田原フラワーガーデンだ。
薔薇の花が満開で、入園料も無料とあって楽しい。
ペンタックスの小型カメラに昔の110カメラのレンズをつけて出かけた。絞りは2.8の解放のみでしか撮影できない。どこかレトロな甘い画像が撮れるレンズだ。
薔薇の季節今年はあちらこちらで撮影を重ねた。
花の香りが獲れないのが悔しくはあるのだが。
今日は久しぶりに海に出た。ビーチバレーをする人々やバーベキューの人。
帰って、この間求めた昔の織り機の筬を手に取る。細かい鉄の金筬を透かして向こう側の光景を撮る。
格子戸の向こう側の世界のようで好きな世界だ。
昔浅草で求めた狐の面を飾る。
半夏生 琴の音聴いて面かぶり 無音
05月22日 [花]
近所の山へ散歩に出かけると、緑の分量が多い中にひっそりと咲く花に出会う。
数年前に名前を知った、源平菊、赤い花は後から咲き始め、最初は白花で源氏の方が先とはおかしいのだが。
ひっそりと夕暮れが似合う花、ホタルブクロ。
植物学的には花の表と裏が釣鐘状の内側と外でひっくり返っているのだとか。よく見れば表はマットで、内側が光沢があり、虫の関係とその光沢が関係しているように思えるのだが。
谷筋に向かい、闇がある。微かな風で葉が揺れる。一ヶ所の葉だけ揺れるのは不思議で、風の道があるのだろうか。
仰ぎ見れば、新緑の花芽と初夏の空。
よく見る花なのだが、名も知らない花が好きだ。
ウツギの花と、光の水玉
ガード下の光の壁
ミラーの手前の壁
此の花もウツギか
白壁のゼラニューム
足元に多い花
銀花 スイカズラ 好きな花 初夏の香り
金花
銀の花
何となく
やはり凄い 光の滲み
海にでるなじみのこみち小判草
明治の頃英国からの上陸とか
青葉は桜、葉の向こうにサクランボの実が3つ
数年前に名前を知った、源平菊、赤い花は後から咲き始め、最初は白花で源氏の方が先とはおかしいのだが。
ひっそりと夕暮れが似合う花、ホタルブクロ。
植物学的には花の表と裏が釣鐘状の内側と外でひっくり返っているのだとか。よく見れば表はマットで、内側が光沢があり、虫の関係とその光沢が関係しているように思えるのだが。
谷筋に向かい、闇がある。微かな風で葉が揺れる。一ヶ所の葉だけ揺れるのは不思議で、風の道があるのだろうか。
仰ぎ見れば、新緑の花芽と初夏の空。
よく見る花なのだが、名も知らない花が好きだ。
ウツギの花と、光の水玉
ガード下の光の壁
ミラーの手前の壁
此の花もウツギか
白壁のゼラニューム
足元に多い花
銀花 スイカズラ 好きな花 初夏の香り
金花
銀の花
何となく
やはり凄い 光の滲み
海にでるなじみのこみち小判草
明治の頃英国からの上陸とか
青葉は桜、葉の向こうにサクランボの実が3つ
05月19日 [花]
近所に太平洋自転車道路という海岸線を走る自転車専用道路がある。古くは湘南から和歌山までの海岸線を結ぶ予定の自転車道路だったそうだが、つい2キロ先の旧吉田茂邸までしか道路はない。
僅かの距離だが西湘バイパスに沿って爽やかな道だ。
お気に入りのシネ用レンズをつけた超小型ペンタックスを首から下げて自転車で出かけた。
僅か600円ほどのジャンクレンズはぐるぐるボケと、レンズの傷でものすごい描写になる。
この世界が好きだ。パラダイスのようなクレージーな歪んだ世界。
今の世界は、本当はこんな世界のかもしれないと思えてくる。
旧吉田茂邸は見事なバラ園があり、今そのバラ園を再現したバラ園は素敵な光景だった。
プリンセスミチコという名の我が最も好きな薔薇。
ここの吉田茂邸から全国へ広がった薔薇だという。我が家にも一鉢が蕾をつけている。
楽園の香と色と
旧吉田茂邸は火災で焼失、復元された金の間、銀の間の二階を望む。
英国時代の英国の薔薇の香りより、香りが軽いねと此の家の主人は言っていたという。
町内の女性彫塑家の作品。
竹薮にも野外アートが
時には鮮明に写る600円レンズ
薔薇の香も波に砕けし今世紀 無音
05月18日 [写真]
先日箱根の登山鉄道線「風祭」かざまつり駅まで出かけてきた。風魔一族が昔住んだ里とも言われ、小田原大雄山鉄道線の「螢田」ほたるだ駅の名と同様に好きな駅名だ。
風祭駅を降りて1分、小田原蒲鉾の老舗「鈴廣」の店舗がある。その店舗は大型バスや、箱根駅伝の中継所としても賑わっている。その鈴廣の蒲鉾博物館の展示で世界の寄木細工と銘打った展示があった。
数年前都内の、塩とタバコの博物館でも同様の企画展示があったようだが、箱根は寄木細工の本場だ。
蒲鉾の多様な商品群の展示を見て、寄木の会場に向かう。
巨大なライティングビューローは机の裏側まで寄木でびっしりだ。英国に日本から輸出された明治の頃から、「ミヤノシタ」という名で親しまれていたらしい。
箱根宮ノ下はホテルや家具の土産物店もあっただろう。
シンメトリーの家具に精緻な日本お職人の技術がちりばめられている。
モチーフは、左右対称の構図を外していることが面白い。
驚いたことに、シリア製と書かれた椅子があった。寄木細工は箱根のものと全く同じ柄と木製。
3000年ほど前から寄木細工は発達し中近東のイスラム文化を中心にシルクロードを通り日本にもやってきたという。目の眩むようなイスラムのタイルのモチーフを木材に置き換えれば寄木細工が完成することを頭の中で考えると納得できた。
シリアやレバノン、スペインのグラナダ地方には多くの樹木がかってあったのだろうか。レバノン杉という言葉を思い出した。寄木細工は徳川家光の時代、静岡に全国の職人が集められたという。その技術は箱根や、日光の東照宮でも発揮されたのだろうか。木材の天然お色だけの集積が、色や彫刻を施すと東照宮の華麗な建築にも結びついた。
風祭の駅で、線路内に立ち入らないための突起物が何か面白く、スナップした。
走り去る列車の陰に三角コーン。
古い風祭駅のスナップをピンボケに撮る
駅には寄木プリントの印刷されたクッションがベンチの上に。
今日は鎌倉に出かけた。北条政子の墓がある寿福寺境内。
新緑が初夏の緑へ
岩のようなビャクシンの木肌
鎌倉も卯の花の季節
足元
扇ガ谷の海蔵寺へ。海蔵寺は井戸を含め水に恵まれ、別名「水の寺」ともいうそうだ。
浄光明寺にも立ち寄り本日はよく歩いた。
雨の雫が萩の葉にも溜り 転げおちる。
硝子戸に映る瓦屋根が、蛇の化身の姿に見えて
風祭駅を降りて1分、小田原蒲鉾の老舗「鈴廣」の店舗がある。その店舗は大型バスや、箱根駅伝の中継所としても賑わっている。その鈴廣の蒲鉾博物館の展示で世界の寄木細工と銘打った展示があった。
数年前都内の、塩とタバコの博物館でも同様の企画展示があったようだが、箱根は寄木細工の本場だ。
蒲鉾の多様な商品群の展示を見て、寄木の会場に向かう。
巨大なライティングビューローは机の裏側まで寄木でびっしりだ。英国に日本から輸出された明治の頃から、「ミヤノシタ」という名で親しまれていたらしい。
箱根宮ノ下はホテルや家具の土産物店もあっただろう。
シンメトリーの家具に精緻な日本お職人の技術がちりばめられている。
モチーフは、左右対称の構図を外していることが面白い。
驚いたことに、シリア製と書かれた椅子があった。寄木細工は箱根のものと全く同じ柄と木製。
3000年ほど前から寄木細工は発達し中近東のイスラム文化を中心にシルクロードを通り日本にもやってきたという。目の眩むようなイスラムのタイルのモチーフを木材に置き換えれば寄木細工が完成することを頭の中で考えると納得できた。
シリアやレバノン、スペインのグラナダ地方には多くの樹木がかってあったのだろうか。レバノン杉という言葉を思い出した。寄木細工は徳川家光の時代、静岡に全国の職人が集められたという。その技術は箱根や、日光の東照宮でも発揮されたのだろうか。木材の天然お色だけの集積が、色や彫刻を施すと東照宮の華麗な建築にも結びついた。
風祭の駅で、線路内に立ち入らないための突起物が何か面白く、スナップした。
走り去る列車の陰に三角コーン。
古い風祭駅のスナップをピンボケに撮る
駅には寄木プリントの印刷されたクッションがベンチの上に。
今日は鎌倉に出かけた。北条政子の墓がある寿福寺境内。
新緑が初夏の緑へ
岩のようなビャクシンの木肌
鎌倉も卯の花の季節
足元
扇ガ谷の海蔵寺へ。海蔵寺は井戸を含め水に恵まれ、別名「水の寺」ともいうそうだ。
浄光明寺にも立ち寄り本日はよく歩いた。
雨の雫が萩の葉にも溜り 転げおちる。
硝子戸に映る瓦屋根が、蛇の化身の姿に見えて
05月12日 [世界]
先日、横浜は港の見える丘公園に隣接した神奈川県立文学館を訪ねました。正岡子規生誕150年の企画展示を見てきました。近代俳句の開拓者正岡子規とその時代がよくわかりました。図録によれば子規は、慶応3年に生まれ、1歳になった時は明治が始まる年だったことがわかります。江戸から明治になって日本は熱烈な国家主義の国に生まれ変わった。食うか食われるかの帝国主義の時代、危うく植民地化を免れ、一転して列強の仲間入りを目指した日本。子規は日本中に満ちる国家主義の空気を吸って育った。大人は子どもを新国家建設に役立つ「有為の人」になるよう育て、子ども自身もそうなりたいと願った。この風潮は昭和戦争の敗戦(1945年)まで80年近く続く。
夏目漱石や正岡子規が生きた時代、国家主義の時代に生きた人々は、家族や新生国家や、世界をどう見ていたのだろうか。
港の見える丘公園は、雨上がりでバラの花たちがたっぷりの水滴を纏っていた。
霧野霞むベイブリッジもなぜか遠い昔を思い起こさせる光景だった。
近代文学館の閲覧室と蔦の陰りが美しい
マロニエの赤い花が咲いていた
展示の中に正岡子規が四度、大磯の地を訪れていることを知った。当時は歩いて旅をすることも普通だった。記者になり日清戦争の戦地まで取材に出かけた子規。
子規とは俳号で、本名正岡常規(つねのり)幼名を処之助(ところのすけ)、後に改名して升(のぼる)と称したという。35歳で夭折している。
子規とは、ホトトギスのことだったとも思い出した。当時の不治の病、結核から脊椎カリエスになったという。21歳の時鎌倉に小旅行の途中、始めて喀血したという。
卯の花をめがけてきたか時鳥
卯の花の散るまで鳴くか子規
卯年生まれの子規が、鳴いて血を吐くといわれるホトトギスに我が身をなぞらえ、この鳥の名を題に四、五十句を詠んだものの一部が上の二句だそうである。
この時から俳号として、子規の名を使い始めたという。
野球という世界に興味を持った子規、小説というものに関心を深めた子規、少年時代漢詩を詠むことで育った子規、新体詩にも興味を持った子規、俳句分類という連歌の時代からの俳句12万句を分類収録までの執念で行った子規、写生とは何かを突き詰めた子規。病気から晩年、口語体の文章を始めて作り出した子規。
彼は「悟りといふ悟りといふ事は如何なる場合にも、平気で死ぬることかと思っていたことは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居ることであった」と記している。
子規の真骨頂が、生きること、今を生き抜くこと。その言葉は重い。
昨日は箱根の宮ノ下までドライブをしてきた。新緑が美しい箱根の山道は大型連休すぎの道路がすきすきの快適な旅だった。
登山鉄道「宮ノ下駅」から徒歩1分のナラヤカフェで初めてお茶をした。足湯をしながら開放的にくつろげるカフェスペースは気持ちがいい。元禄時代に箱根宮ノ下に創業した奈良屋旅館は、富士屋ホテルよりも古い歴史を持つ老舗だっという。2001年廃業し、その建物も名庭も一万五千坪あまりが買い取られ成金趣味的なホテルにない変わっているようだ。今でも予約の取りにくいその新しいホテルが立つ前に、奈良屋カフェとして跡地に営業していたような気がするのは記憶違いだろうか。
現在のナラヤカフェは、奈良屋旅館の従業員用に古い旅館を買い取り建物として使っていたもののようで2007年改築してオープン、今年2017年で10周年を迎えるようだ。300年の歴史を刻んだ古い写真や看板が店の一角に丁寧に展示されていた。
メニューにカフェの創設の思いが丁寧に語られている。その歴史の中に携わった人々が、このカフェを愛で、見守っているであろうことが感じられる。
NARAYACAFE ナラヤカフェのホームページから元禄以降の宿泊者に江戸の諸大名が宿泊した記録があるという。総勢200名を超える大名の滞在もあったという。正岡子規も箱根まで旅をしたという。
新緑の箱根の光景、なぜか眩しく、懐かしく思えた旅でした。
夏目漱石や正岡子規が生きた時代、国家主義の時代に生きた人々は、家族や新生国家や、世界をどう見ていたのだろうか。
港の見える丘公園は、雨上がりでバラの花たちがたっぷりの水滴を纏っていた。
霧野霞むベイブリッジもなぜか遠い昔を思い起こさせる光景だった。
近代文学館の閲覧室と蔦の陰りが美しい
マロニエの赤い花が咲いていた
展示の中に正岡子規が四度、大磯の地を訪れていることを知った。当時は歩いて旅をすることも普通だった。記者になり日清戦争の戦地まで取材に出かけた子規。
子規とは俳号で、本名正岡常規(つねのり)幼名を処之助(ところのすけ)、後に改名して升(のぼる)と称したという。35歳で夭折している。
子規とは、ホトトギスのことだったとも思い出した。当時の不治の病、結核から脊椎カリエスになったという。21歳の時鎌倉に小旅行の途中、始めて喀血したという。
卯の花をめがけてきたか時鳥
卯の花の散るまで鳴くか子規
卯年生まれの子規が、鳴いて血を吐くといわれるホトトギスに我が身をなぞらえ、この鳥の名を題に四、五十句を詠んだものの一部が上の二句だそうである。
この時から俳号として、子規の名を使い始めたという。
野球という世界に興味を持った子規、小説というものに関心を深めた子規、少年時代漢詩を詠むことで育った子規、新体詩にも興味を持った子規、俳句分類という連歌の時代からの俳句12万句を分類収録までの執念で行った子規、写生とは何かを突き詰めた子規。病気から晩年、口語体の文章を始めて作り出した子規。
彼は「悟りといふ悟りといふ事は如何なる場合にも、平気で死ぬることかと思っていたことは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居ることであった」と記している。
子規の真骨頂が、生きること、今を生き抜くこと。その言葉は重い。
昨日は箱根の宮ノ下までドライブをしてきた。新緑が美しい箱根の山道は大型連休すぎの道路がすきすきの快適な旅だった。
登山鉄道「宮ノ下駅」から徒歩1分のナラヤカフェで初めてお茶をした。足湯をしながら開放的にくつろげるカフェスペースは気持ちがいい。元禄時代に箱根宮ノ下に創業した奈良屋旅館は、富士屋ホテルよりも古い歴史を持つ老舗だっという。2001年廃業し、その建物も名庭も一万五千坪あまりが買い取られ成金趣味的なホテルにない変わっているようだ。今でも予約の取りにくいその新しいホテルが立つ前に、奈良屋カフェとして跡地に営業していたような気がするのは記憶違いだろうか。
現在のナラヤカフェは、奈良屋旅館の従業員用に古い旅館を買い取り建物として使っていたもののようで2007年改築してオープン、今年2017年で10周年を迎えるようだ。300年の歴史を刻んだ古い写真や看板が店の一角に丁寧に展示されていた。
メニューにカフェの創設の思いが丁寧に語られている。その歴史の中に携わった人々が、このカフェを愛で、見守っているであろうことが感じられる。
NARAYACAFE ナラヤカフェのホームページから元禄以降の宿泊者に江戸の諸大名が宿泊した記録があるという。総勢200名を超える大名の滞在もあったという。正岡子規も箱根まで旅をしたという。
新緑の箱根の光景、なぜか眩しく、懐かしく思えた旅でした。