05月12日 [世界]
先日、横浜は港の見える丘公園に隣接した神奈川県立文学館を訪ねました。正岡子規生誕150年の企画展示を見てきました。近代俳句の開拓者正岡子規とその時代がよくわかりました。図録によれば子規は、慶応3年に生まれ、1歳になった時は明治が始まる年だったことがわかります。江戸から明治になって日本は熱烈な国家主義の国に生まれ変わった。食うか食われるかの帝国主義の時代、危うく植民地化を免れ、一転して列強の仲間入りを目指した日本。子規は日本中に満ちる国家主義の空気を吸って育った。大人は子どもを新国家建設に役立つ「有為の人」になるよう育て、子ども自身もそうなりたいと願った。この風潮は昭和戦争の敗戦(1945年)まで80年近く続く。
夏目漱石や正岡子規が生きた時代、国家主義の時代に生きた人々は、家族や新生国家や、世界をどう見ていたのだろうか。
港の見える丘公園は、雨上がりでバラの花たちがたっぷりの水滴を纏っていた。
霧野霞むベイブリッジもなぜか遠い昔を思い起こさせる光景だった。
近代文学館の閲覧室と蔦の陰りが美しい
マロニエの赤い花が咲いていた
展示の中に正岡子規が四度、大磯の地を訪れていることを知った。当時は歩いて旅をすることも普通だった。記者になり日清戦争の戦地まで取材に出かけた子規。
子規とは俳号で、本名正岡常規(つねのり)幼名を処之助(ところのすけ)、後に改名して升(のぼる)と称したという。35歳で夭折している。
子規とは、ホトトギスのことだったとも思い出した。当時の不治の病、結核から脊椎カリエスになったという。21歳の時鎌倉に小旅行の途中、始めて喀血したという。
卯の花をめがけてきたか時鳥
卯の花の散るまで鳴くか子規
卯年生まれの子規が、鳴いて血を吐くといわれるホトトギスに我が身をなぞらえ、この鳥の名を題に四、五十句を詠んだものの一部が上の二句だそうである。
この時から俳号として、子規の名を使い始めたという。
野球という世界に興味を持った子規、小説というものに関心を深めた子規、少年時代漢詩を詠むことで育った子規、新体詩にも興味を持った子規、俳句分類という連歌の時代からの俳句12万句を分類収録までの執念で行った子規、写生とは何かを突き詰めた子規。病気から晩年、口語体の文章を始めて作り出した子規。
彼は「悟りといふ悟りといふ事は如何なる場合にも、平気で死ぬることかと思っていたことは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居ることであった」と記している。
子規の真骨頂が、生きること、今を生き抜くこと。その言葉は重い。
昨日は箱根の宮ノ下までドライブをしてきた。新緑が美しい箱根の山道は大型連休すぎの道路がすきすきの快適な旅だった。
登山鉄道「宮ノ下駅」から徒歩1分のナラヤカフェで初めてお茶をした。足湯をしながら開放的にくつろげるカフェスペースは気持ちがいい。元禄時代に箱根宮ノ下に創業した奈良屋旅館は、富士屋ホテルよりも古い歴史を持つ老舗だっという。2001年廃業し、その建物も名庭も一万五千坪あまりが買い取られ成金趣味的なホテルにない変わっているようだ。今でも予約の取りにくいその新しいホテルが立つ前に、奈良屋カフェとして跡地に営業していたような気がするのは記憶違いだろうか。
現在のナラヤカフェは、奈良屋旅館の従業員用に古い旅館を買い取り建物として使っていたもののようで2007年改築してオープン、今年2017年で10周年を迎えるようだ。300年の歴史を刻んだ古い写真や看板が店の一角に丁寧に展示されていた。
メニューにカフェの創設の思いが丁寧に語られている。その歴史の中に携わった人々が、このカフェを愛で、見守っているであろうことが感じられる。
NARAYACAFE ナラヤカフェのホームページから元禄以降の宿泊者に江戸の諸大名が宿泊した記録があるという。総勢200名を超える大名の滞在もあったという。正岡子規も箱根まで旅をしたという。
新緑の箱根の光景、なぜか眩しく、懐かしく思えた旅でした。
夏目漱石や正岡子規が生きた時代、国家主義の時代に生きた人々は、家族や新生国家や、世界をどう見ていたのだろうか。
港の見える丘公園は、雨上がりでバラの花たちがたっぷりの水滴を纏っていた。
霧野霞むベイブリッジもなぜか遠い昔を思い起こさせる光景だった。
近代文学館の閲覧室と蔦の陰りが美しい
マロニエの赤い花が咲いていた
展示の中に正岡子規が四度、大磯の地を訪れていることを知った。当時は歩いて旅をすることも普通だった。記者になり日清戦争の戦地まで取材に出かけた子規。
子規とは俳号で、本名正岡常規(つねのり)幼名を処之助(ところのすけ)、後に改名して升(のぼる)と称したという。35歳で夭折している。
子規とは、ホトトギスのことだったとも思い出した。当時の不治の病、結核から脊椎カリエスになったという。21歳の時鎌倉に小旅行の途中、始めて喀血したという。
卯の花をめがけてきたか時鳥
卯の花の散るまで鳴くか子規
卯年生まれの子規が、鳴いて血を吐くといわれるホトトギスに我が身をなぞらえ、この鳥の名を題に四、五十句を詠んだものの一部が上の二句だそうである。
この時から俳号として、子規の名を使い始めたという。
野球という世界に興味を持った子規、小説というものに関心を深めた子規、少年時代漢詩を詠むことで育った子規、新体詩にも興味を持った子規、俳句分類という連歌の時代からの俳句12万句を分類収録までの執念で行った子規、写生とは何かを突き詰めた子規。病気から晩年、口語体の文章を始めて作り出した子規。
彼は「悟りといふ悟りといふ事は如何なる場合にも、平気で死ぬることかと思っていたことは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居ることであった」と記している。
子規の真骨頂が、生きること、今を生き抜くこと。その言葉は重い。
昨日は箱根の宮ノ下までドライブをしてきた。新緑が美しい箱根の山道は大型連休すぎの道路がすきすきの快適な旅だった。
登山鉄道「宮ノ下駅」から徒歩1分のナラヤカフェで初めてお茶をした。足湯をしながら開放的にくつろげるカフェスペースは気持ちがいい。元禄時代に箱根宮ノ下に創業した奈良屋旅館は、富士屋ホテルよりも古い歴史を持つ老舗だっという。2001年廃業し、その建物も名庭も一万五千坪あまりが買い取られ成金趣味的なホテルにない変わっているようだ。今でも予約の取りにくいその新しいホテルが立つ前に、奈良屋カフェとして跡地に営業していたような気がするのは記憶違いだろうか。
現在のナラヤカフェは、奈良屋旅館の従業員用に古い旅館を買い取り建物として使っていたもののようで2007年改築してオープン、今年2017年で10周年を迎えるようだ。300年の歴史を刻んだ古い写真や看板が店の一角に丁寧に展示されていた。
メニューにカフェの創設の思いが丁寧に語られている。その歴史の中に携わった人々が、このカフェを愛で、見守っているであろうことが感じられる。
NARAYACAFE ナラヤカフェのホームページから元禄以降の宿泊者に江戸の諸大名が宿泊した記録があるという。総勢200名を超える大名の滞在もあったという。正岡子規も箱根まで旅をしたという。
新緑の箱根の光景、なぜか眩しく、懐かしく思えた旅でした。