06月04日 [時]
元働いていた会社の同窓会があって東京へ出かけた。
集合時間まで間があるので、会社から徒歩5分で行けた蕎麦の、まつやに出かけた。開店時間の前には行列ができていた。神田淡路町交差点近くの、太平洋戦争の下町の火災にも奇跡的に焼け残った一角の中にまつやはある。神田青果市場が近くにあり市場関係者も昔は多く出入りした店と聴いたことがある。
近くにはアンコウ鍋の伊勢源、鳥のぼたん、甘味どころ竹むら、藪蕎麦本店、喫茶ショパン、西洋料理松栄亭などの老舗がひしめく。
まつやの店内には土曜日の開店時間前に並んだ甲斐があり直ぐに入れた。
天井を見上げると大きな格子状の灯りと、店のまつやの松の姿が窓の装飾にある。土間と奥の調理場からオバさん連中の店員が慌ただしく注文の品を運ぶ。
店主が奥に座り、会計処理をしていたのだがこの日は店員が会計の処理は此処の客にしていた。
昔から店員の方は白か紺のハイソックスを履いている。
注文は大盛りにした。メニューをちらりと見ると、かき揚天丼の名があった。昼に蕎麦では物足りなかった若い頃、かき揚天丼をいつも頼んだ。蕎麦は昔と同じでうまい。
初めてこの店に来たのは、約50年の昔だと気づいて驚いた。当たり前にそんな時間が過ぎていた。
初めてこの店を訪れたのは、池波正太郎さんの本のページからだったか。十代の終わりの歳の頃、地味なものが好きだった。特にこの一角の寂れた大人の街の印象が好きだった。
まつやの夜では、池波志乃とご亭主の粋な二人連れもあった。
藪蕎麦本店は数年前に火災のため再建されたが、昔から黒塗りの車が門前に停車して好きにはなれない店だった。伊勢源はアンコウ鍋だが、夏でも営業していて二階の座敷で独占して夏の夜の晩餐を食べたのは思い出に残っている。甘味の竹むらは、二階で昔は句会も開かれていたという。
近くには万世橋の駅の跡に交通博物館があり何かレトロで時間が止まっていた。付近には羅紗ありますと看板の出た生地屋のビルも何軒かあった。
竹むらの店先を見て、揚げ饅頭を思い出した。この店内も昔ながらの叩きの土間だ。
最近であろうか十年は経つのか寄席の幟があった。奥には藪蕎麦の看板が見える。
自分が十代にタイムスリップしたかのように、画像はこの日に撮り、セピアカラーに変換した。
中央線の列車が旧万世橋の煉瓦のアーチの上を走行していく。
煉瓦塀の向こうへ歩いていく、遠い昔の自分を見た。
煉瓦塀の向こうに歩いていく、今の自分に姿は変わった。
昌平橋から秋葉原方面へと脚を向ける。
川面の姿は、半世紀前も一緒。波紋が描くのは高層ビルなのだが。
煉瓦と高層ビルは何か馴染んでいた。
秋葉原から神田まで山手線に乗る。途中秋葉原駅前に健在のラジオセンターにも脚を運んだ。
会社の同窓会は多くの人たちが集まった老若男女、数十年ぶりに会えた人もいる。女性の顔は分からない方が多い。現役の人もかなりいる。縁あって数年から数十年を共に働いた人々。参加できなかった人達のメッセージが読み上げられる。騒音と喧騒でみんな聞いてはいないけど。名前に懐かしさが蘇る。
十代で入った会社の創業者がN.Y.で修行中に、母からの手紙が聖書よりも大切で大事なものだと話し、社員の誕生月には、ケーキを贈ってくれた。家庭的でアットホームの会社だった。間も無く創業も100年を迎えようとしている。
一人の先輩の男性が、会の締めに話された。「自分は昭和38年上京しこの会社に入り、翌年東京オリンピックを迎えたのです。2020年東京オリンピックの年にもう一度集まりましょう」
1964年のオリンピックの年まだ自分は高校生だった。この会社に入り数年後新幹線で大阪万博への市場調査をこの会社の上司は許してくれたことを思い出した。神田駅周辺の光景の今
帰りには東京駅で降りた。中央郵便局へは仕事の荷物の発送や、新しい切手を買うためによく通った。
駅舎の南口のドームとステーションホテルの入り口
ひたすら光が美しい 昔の光も今の光も チリが踊る
中央郵便局はKITTEビルに生まれ変わった
化粧品メーカーのイベントが
丸ビルにあるような古風な帽子
最後に東京駅の東海道線ホームから 松本清張の作品「点と線」を思い出して
集合時間まで間があるので、会社から徒歩5分で行けた蕎麦の、まつやに出かけた。開店時間の前には行列ができていた。神田淡路町交差点近くの、太平洋戦争の下町の火災にも奇跡的に焼け残った一角の中にまつやはある。神田青果市場が近くにあり市場関係者も昔は多く出入りした店と聴いたことがある。
近くにはアンコウ鍋の伊勢源、鳥のぼたん、甘味どころ竹むら、藪蕎麦本店、喫茶ショパン、西洋料理松栄亭などの老舗がひしめく。
まつやの店内には土曜日の開店時間前に並んだ甲斐があり直ぐに入れた。
天井を見上げると大きな格子状の灯りと、店のまつやの松の姿が窓の装飾にある。土間と奥の調理場からオバさん連中の店員が慌ただしく注文の品を運ぶ。
店主が奥に座り、会計処理をしていたのだがこの日は店員が会計の処理は此処の客にしていた。
昔から店員の方は白か紺のハイソックスを履いている。
注文は大盛りにした。メニューをちらりと見ると、かき揚天丼の名があった。昼に蕎麦では物足りなかった若い頃、かき揚天丼をいつも頼んだ。蕎麦は昔と同じでうまい。
初めてこの店に来たのは、約50年の昔だと気づいて驚いた。当たり前にそんな時間が過ぎていた。
初めてこの店を訪れたのは、池波正太郎さんの本のページからだったか。十代の終わりの歳の頃、地味なものが好きだった。特にこの一角の寂れた大人の街の印象が好きだった。
まつやの夜では、池波志乃とご亭主の粋な二人連れもあった。
藪蕎麦本店は数年前に火災のため再建されたが、昔から黒塗りの車が門前に停車して好きにはなれない店だった。伊勢源はアンコウ鍋だが、夏でも営業していて二階の座敷で独占して夏の夜の晩餐を食べたのは思い出に残っている。甘味の竹むらは、二階で昔は句会も開かれていたという。
近くには万世橋の駅の跡に交通博物館があり何かレトロで時間が止まっていた。付近には羅紗ありますと看板の出た生地屋のビルも何軒かあった。
竹むらの店先を見て、揚げ饅頭を思い出した。この店内も昔ながらの叩きの土間だ。
最近であろうか十年は経つのか寄席の幟があった。奥には藪蕎麦の看板が見える。
自分が十代にタイムスリップしたかのように、画像はこの日に撮り、セピアカラーに変換した。
中央線の列車が旧万世橋の煉瓦のアーチの上を走行していく。
煉瓦塀の向こうへ歩いていく、遠い昔の自分を見た。
煉瓦塀の向こうに歩いていく、今の自分に姿は変わった。
昌平橋から秋葉原方面へと脚を向ける。
川面の姿は、半世紀前も一緒。波紋が描くのは高層ビルなのだが。
煉瓦と高層ビルは何か馴染んでいた。
秋葉原から神田まで山手線に乗る。途中秋葉原駅前に健在のラジオセンターにも脚を運んだ。
会社の同窓会は多くの人たちが集まった老若男女、数十年ぶりに会えた人もいる。女性の顔は分からない方が多い。現役の人もかなりいる。縁あって数年から数十年を共に働いた人々。参加できなかった人達のメッセージが読み上げられる。騒音と喧騒でみんな聞いてはいないけど。名前に懐かしさが蘇る。
十代で入った会社の創業者がN.Y.で修行中に、母からの手紙が聖書よりも大切で大事なものだと話し、社員の誕生月には、ケーキを贈ってくれた。家庭的でアットホームの会社だった。間も無く創業も100年を迎えようとしている。
一人の先輩の男性が、会の締めに話された。「自分は昭和38年上京しこの会社に入り、翌年東京オリンピックを迎えたのです。2020年東京オリンピックの年にもう一度集まりましょう」
1964年のオリンピックの年まだ自分は高校生だった。この会社に入り数年後新幹線で大阪万博への市場調査をこの会社の上司は許してくれたことを思い出した。神田駅周辺の光景の今
帰りには東京駅で降りた。中央郵便局へは仕事の荷物の発送や、新しい切手を買うためによく通った。
駅舎の南口のドームとステーションホテルの入り口
ひたすら光が美しい 昔の光も今の光も チリが踊る
中央郵便局はKITTEビルに生まれ変わった
化粧品メーカーのイベントが
丸ビルにあるような古風な帽子
最後に東京駅の東海道線ホームから 松本清張の作品「点と線」を思い出して