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10月17日 [物語]

眠りが浅い時はよく夢を見るようだ。
夢日記をつけてはいないが、現実に見た記憶や日常の記憶のきっかけが見事な編集で夢になる。
何か現実と夢が深いところでつながる世界、怖い気もするが、理由があるのだろう。

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滲む写真が好きだ。滲みは境界線をイエスとノー以外の領域で示してくれる。

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昔ニッキ水を入れた入れ物だというが、その色は夢の色。

7月04日 [物語]

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横須賀生まれの自分は、5歳くらいの頃、道ですれ違った米軍の将校のような軍服を着た兵隊からチョコレートを貰いそうになりました。その時何か屈辱的な気がして貰うのを拒否しました。周りにいた大人たちは貰っておきなよと言いましたが、大人たちの発言が悲しくなりました。
ものを貰うのに理由が、わからなかつたからです。

今日はアメリカの独立記念日です。横須賀の米軍基地は友好のためと、公開されていました。20歳の頃か基地を見学しました。野球場の芝生の上に、ステージが設置されホイットニーヒューストンという歌手が歌いました。あのボディガードで著名な歌手と同一人物だつたかは、わかりません。その後フランシス コッポラ監督の地獄の黙示録で、歌手の慰問のステージシーンを観てこの独立記念日の夜のステージを思い出しました。

その日、星条旗と日の丸の国旗掲揚があり、星条旗の掲揚で胸に手を当てる海兵隊のシルエットがとても凛々しく感動的でした。愛国心とは何か心にしみた日でした。

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3月27日 [物語]

花見の季節、去年から黒塗りの小さな重箱に、似あった小風呂敷で包んである、それに卵焼きでも入れて持参しようと思っている。小風呂敷かハンカチのようなその柄は利休鼠のような温かみの灰色に、霰がふるような様。

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本屋で出会った、最近の心に染み入るような本。
何か今という時代が生んだ、作家の良心がとてもとても共感できる。
ネットでブログに書かれていた文章が本になった模様だが、今年一番お勧めできそうな本だ。
「断片的なものの社会学」岸政彦著 朝日出版社 だ。以下長いけど本の中から、引用。
この小石の話、なぜか心が詰まるほど共感できてしまうのです。今現在。


小学校に入る前ぐらいのときに奇妙な癖があって、道ばたに落ちている小石を適当に拾い上げ、そのたまたま拾われた石をいつまでもじっと眺めていた。私を惹きつけたのは、無数にある小石のひとつでしかないものが、「この小石」になる不思議な瞬間である。

「人生は断片的なものが集まってできている」の章から

私はいちども、それらに感情移入をしたことがなかった。名前をつけて擬人化したり、自分の孤独を投影したり、小石と自分との密かな会話を想像したりしたことも、いちどもなかった。そのへんの道ばたに転がっている無数の小石のなかから無作為にひとつを選びとり、手のひらに乗せて顔を近づけ、ぐっと意識を集中して見つめていると、しだいにそのとりたてて特徴のない小石の形、色、つや、表面の模様や傷がくっきりと浮かび上がってきて、他のどの小石とも違った、世界にたったひとつの「この小石」になる瞬間が訪れる。そしてそのとき、この小石がまさに世界のどの小石とも違うということが明らかになってくる。そのことに陶酔していたのである。

そしてさらに、世界中のすべての小石が、それぞれの形や色、つや、模様、傷を持った「この小石」である、ということの、その想像をはるかに超えた「膨大さ」を、必死に想像しようとしていた。いかなる感情移入も擬人化もないところにある、「すべてのもの」が「このこれ」であることの、その単純なとんでもなさ。そのなかで個別であることの、意味のなさ。

これは「何の意味もないように見えるものも、手にとってみるとかけがえのない固有の存在であることが明らかになる」というような、ありきたりな「発見のストーリー」なのではない。

私の手のひらに乗っていたあの小石は、それぞれかけがえのない、世界にひとつしかないものだった。そしてその世界にひとつしかないものが、世界中の路上に無数に転がっているのである。


*  *  *


私たちは、それぞれ「自分の人生」を生きていて、それはそのままその私たちの「全世界」でもある。しかし、私たちは、それぞれの全世界を生きながら、他人とは断片的にしかつながることができない。私たちはそれぞれ、徹底的にひとりきりのままで、自分の人生を生きるしかない。だれか他人と、一時期のあいだ「一緒に暮らす」ことはできても、その他人が、私たちの自分の人生の「中に入ってきてくれる」ことはない。そして、さらに、私たちが閉じこめられている「自分の人生」そのものも、あまりにももろい。

しかし、ふとしたきっかけでおおきく崩れさった自分の人生の廃墟から、私たちは何度も立ち上がる。そして、他者とのあいだに断片的なつながりしか作れなかったとしても、その断片的なつながりから私たちは、たとえ一瞬のあいだでも、おおきな喜びを得ることができる。

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そして「笑いと自由」の章から

アーシュラ・ル=グウィンの『ゲド戦記』第4巻に、とても印象的なシーンがある。大魔法使いゲドの「伴侶」であるテナーという女性は、テルーという里子を育てている。テルーは、まだ小さな子どもだが、言葉では言えないような陰惨なことをされて、顔の半分がケロイドのようにただれている。テナーは、心に難しいところをたくさん抱えるテルーを心から愛している。もちろんその顔の傷も一緒に愛を注いでいる。

しかし、こんなシーンがある。ある夜テナーは、ぐっすりと寝ているテルーの寝顔を見ているうちに、ふと、手のひらで顔のケロイドを覆い隠す。そこには美しい肌をした子どもの寝顔があらわれる。

テナーはすぐに手を離して、何も気付かず寝ているテルーの顔の傷跡にキスをする。

笑いとはあまり関係のないシーンだが、私はこのシーンに、私がここで言いたかったことがすべて描かれていると思う。テナーはテルーの傷跡もふくめて、その全てを愛している。でも、あるときふと、その傷跡を手で隠して、きれいな顔のテルーを想像する。それは誰にも知られない、ほんの一瞬のことだが、この描写によって、ありのままのかけがえのないものをすべて受け入れるテナーの愛情から、あらゆるきれいごとや建前がきれいに消されている。

ある種の笑いというものは、心のいちばん奥にある暗い穴のようなもので、なにかあると私たちはそこに逃げ込んで、外の世界の嵐をやりすごす。そうやって私たちは、バランスを取って、かろうじて生きている。

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何かこの本は何ども読みたくなる光景が詰まっている気がします。著者は社会学者1967年生まれ







 



            法然と岸政彦の春を買い    むおん









1月31日 [物語]

何かが終わることは、始まりでもあること。事おさめとは、事始でもある。
今日という日に、世界で3番目に出来たという公立の美術館が閉館する。
鎌倉という地に、その美術館ができたのは、何か必然だったのだろう。
大衆の為の、王侯貴族のものではない美術館。近代美術館という近代は、たかだか100年もたつてはいないのか。

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ジャコメッティの歩く人が、水面をしつかりと歩みだす姿



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平家池の蓮の葉はみなぞこで、雨滴の輪



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明日をみつめて。



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風と 作品名の 彫刻





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又明日に続く

1月29日 [物語]

鎌倉にいます。鶴岡八幡宮の境内にある、鎌倉近代美術館が今月の31日で閉館するのでやって来ました。雨なので来館者は少ないと思ったのですが、意外と沢山の人出。開館は1951年という歴史だから、さようならを云いに来た人達が多いのも当然ですね。
帰りがけリュックのおじさんが、美術館の玄関の階段と建物に、深々と挨拶の御辞儀をして帰って行かれたのが印象的でした。デジカメは1948年生まれのレンズ他3本を持って出かけました。一枚のディスク全てをたっぷり撮影しました。16歳の頃から此の美術館へ通い始め、半世紀の時間が流れた事に深いものを感じました。画像は、アイフオンから、美術館2階テラスからと、小町通りの路地のカフェの窓から。

鎌倉の白梅の樹半世紀 無音




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半世紀作品の影に蓮の華 むおん


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1月9日 [物語]

浦島太郎伝説に興味を惹かれた。高速で移動するものに搭乗する人間は、歳をとらずに若いままで生きられるという。光の速さの宇宙船があれば、乗組員はアインシュタインによると歳をとらないという。
本当なのだろうか。浦島太郎が宇宙船に乗ったとしたら。帰ってきた世界は遠い未来になっていた。
そんな夢物語は、平安時代の昔から存在したのだという。帰国した浦島太郎が木曽の山奥で、旅をして目覚めた時驚いたという奇観の場所が、「寝覚めの床」という地名となっているという。その日本の遥か北方の満州に、東京城という都があったという。その都に浦島太郎の釣竿が残されていたという。その浦島太郎の生地は、丹後半島の村だったという。ご近所の100歳近くになる老人から、自分は東京城と、寝覚めの床へ出かけているとお聞きした。各地に残る浦島伝説、大陸との交流や、人々が運んだ物語の歴史が見えてくる。
大津波の後、故郷に何年かして帰り、其処が変貌して驚いた漁師の話から浦島伝説が、生まれたという話も数年前に知った。物語や神話の世界に隠れた秘密に深いものを感じます。







冬晴れやCMに浦島太郎の眼が光る むおん







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七月十日 [物語]

1948年昭和23年製作の映画『蜂の巣の子供たち』清水宏監督作品をYouTubeで見る。
英語の字幕、素人の孤児たちの台詞の組み合わせが印象的。棒読みの台詞と生々しい台詞を吐く子供。その落差が何か凄い。70年近く前にこんな映画があったとは。小津安二郎監督とも親友だったという清水監督。対照的な二人だったらしい。今見ると言葉のリズムとそのスピードが美しい。今の早口言葉のようなせわしい世界が悲しくなるような癒される映画だ。今出演の少年たちは70代半ば、どんな人生を送っているのだろう。戦後70年は政治家たちが語るものだけではないと深く感じた。www.youtube.com/watch?v=SnfqnVMlZXY
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昭和17年花水川河口の大磯練馬場で草刈り大会。この時期の夏草はよく伸びる。草や茂る枝との戦い。

七月四日 [物語]

いくつもの岐れ道に出会ってきた。道はその先で繋がっているのもあるが、その先二度と出会えない道もあったのだろう。明日出会う分かれ道もその延長の選択が続く。
私は右の道を行くか 左の道を行くのか 躊躇する
考える 答えは 足だけが知っている
頭で考えるな
岐れ道

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今日は七月四日アメリカという国の独立記念日。40年近く前か横須賀基地の中が一般公開で友人と基地の中に入った。芝生の広場でステージが作られ、流れた曲はホイットニーヒューストンが歌う曲だった。彼女が慰問のために世界にある米軍基地を巡っていたのだろうか。人違いだったのか。当日のイベントのプログラムにヒューストンの名前があがっていたら確かなのだが。
今思えば、映画『地獄の黙示録」の一場面のようなスポットライトに浮かび上がるステージと、近くの海軍病院にはベトナム戦争の傷病兵もベッドの上にいたのかもしれない。海辺では白い帆のヨットに乗った休暇の米兵の白い歯迄も見えた。一番衝撃的だったのが、星条旗が野球の親善試合の前に上がり、星条旗に向かい胸に手を当て掲揚する軍人や市民の姿だった。
目の前にこの光景を見て、何か胸が熱くなった。愛国心が強い自分ではない。何故あの時強く胸が痛くなったのか。今も考える。国旗と国歌と国民とは何か。

昭和9年 大磯平塚花水川河畔に政友村建設 平塚西海岸の小川射山翁の花水庵をめぐり政友大御所連の別荘建設進む。小川平吉、号が射山は鉄道大臣在任中それまで左書きだった駅名標をすべて右書に改め、“国粋大臣”の異名をとったという。現在も平塚市に花水庵の立派な山門は残る。

四月八日 [物語]

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灌仏会は、釈迦の誕生を祝う仏教行事である。日本では原則として毎年4月8日に行われる。

釈迦が旧暦の4月8日に生まれたという伝承に基づく。降誕会、仏生会、浴仏会、龍華会、花会式、花祭の別名もある。北伝仏教の伝来した地方では、一般に釈迦の誕生日は中国暦4月8日とされているが、その典拠は必ずしも明らかではない。インドと基本的に同系統の暦を用いる南伝仏教圏では、釈迦の誕生日はインド系太陽太陰暦第2月15日(ウェーサーカ祭)であるとされている。インド暦の2月は中国暦の4月から5月に相当するため、中国暦4月に翻訳されたと考えられている。また、法顕の仏国記には「建卯」月の8日または1日から15日にかけて、グプタ朝治下のインド各地で祝祭が行われていたとある。中国語で「卯の月」とは春分を含む月であり、インド暦の正月祭(例えばタイにおけるソンクラーン)が起源である可能性もある。

現在においては、正月などの他の伝統行事と同じように、日本と日本以外の全ての東アジア圏や世界各地の華人社会とで日付の慣行が全く異なる。日本では、グレゴリオ暦4月8日、または寺院によっては同5月8日(月遅れ)を灌仏会とするのが一般である。他方、日本以外の東アジア圏や華人社会ではこのようなグレゴリオ暦への読み替えという考え方は存在せず、従来通り中国暦4月8日をもって灌仏会とする。

日本では、様々な草花で飾った花御堂(はなみどう)を作って、その中に灌仏桶を置き、甘茶を満たす。誕生仏の像をその中央に安置し、柄杓で像に甘茶をかけて祝う。甘茶をかけるのは、釈迦の誕生時、産湯を使わせるために9つの竜が天から清浄の水を注いだとの伝説に由来する[1]。宗派に関係なくどの寺院でも行う[2]。甘茶は参拝者にもふるまわれ、甘茶で習字をすれば上達すると言われたり、害虫よけのまじないを作ったりもする。

俗に言う「花まつり」の名称は、明治時代にグレゴリオ暦が導入され、灌仏会の日付の読み替えが行われた後の4月8日が、関東地方以西で桜が満開になる頃である事から、浄土真宗の僧・安藤嶺丸が提唱した。それ以来、宗派を問わず灌仏会の代名詞として用いられている。一方、明治以前の民間では灌仏会とは直接関係のない先祖の法要や花立て、あるいは山の神を祀るための祭礼や山開きなどが4月8日に行う場合があった(卯月八日)。祖先神でかつ農事の神でもあった山の神を祀る際には、花が一種の依代として用いられていたことから、花を用いて山の神(祖先神・農事神)や祖先を祀る民間習俗に仏教行事である灌仏会が習合した結果、「花まつり」となったとする解釈もある。

お寺が経営している幼稚園や保育園では、こちらの名称の方がよく知られている。子どもたちにとっては甘茶をいただく日であり、また稚児行列を出す寺も多い。仏教系の学校でも行う場合が多い。この場合、4月8日は新年度が始まった直後で多忙な時期であるため、月遅れで行われることもある。

以上ウイキペディアより引用。誕生日や物故日を記念する日は多い。その人を偲び、その人が生きた時代、成し得た徳を思う日なのだろう。先日平成27年3月31日上野の輪王寺別院で「花まつり」の甘茶をいただいた。世界中で同時にではなくそれぞれの歴史が刻んだ、お釈迦様の誕生日を祝う。その日が様々な日であることに何か人間らしい確からしさを感じる。

柳や桜の花や、春の装いの季節に、灌仏会は何かとても似合っている。

明治21年(1908)4月9日午前中より、雪混じりの暴風雨、湘南大磯紀州徳川候別邸の桜は散り、周辺家屋の屋根飛ばされたものすくなからず。
100年以上前のこの日、雪混じりの暴風雨、空に舞い上がる桜の花びらか雪の姿が目に浮かびます。春の嵐、雪あらし、白い嵐、自然は優しくも逞しくもあると実感します。
満開の桜に白いものがふんわり乗った年もありました。平成27年の今日も雨に霙が混じり新緑や名残の桜に降りしきっています。路上一面の花吹雪は星空の絨毯のようです。

昭和29年(1954)湘南に餘綾市誕生へ。国府町、大磯、二宮へ呼びかけ、国土ホテルで14日に3町合併の懇談会。人口大磯では1万6千人、二宮1万2千人、国府6千人。

この年の12月、大磯町と国府町は合併し現在に至っている。国土ホテルは昭和28年8月大磯ロングビーチホテルとして開業し、現在の大磯プリンスホテルになっている。

注)古代の律令制下では餘綾郡(よろぎぐん・よろぎのこほり)と表記された。相模国中部、大磯丘陵南側の相模湾沿岸部をその領域とする。近世以降は淘綾郡と表記することが多くなり、明治政府による郡編制の際にもこの表記が採用された。 古代餘綾郡の郡衙は現在の大磯町国府本郷付近にあったと推定されている。




二月二日 [物語]

テレホーンと題した銅版画。love callの電話ケーブルのアイディアが楽しい。某美術評論家と、画家の彼女の共同生活の1シーンを思い浮かべてしまう。離れた距離を結ぶ電話線。離れた距離を一つにするラブコール。離れた距離の彼女の部屋の窓の外に小雪が舞い始めた。公衆電話ボックスの彼の小窓にも粉雪が舞い始めた。雪の降りは激しさを増し二人の間を白銀の吹雪の世界に変えてしまう。ひとつの白い世界は、やがて薄紅色の花吹雪に姿を変えた。花吹雪の中に二人の背中が遠ざかり、緑一面の山々が笑っていた。一枚の小さな版画の今朝の物語。
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明治43年西暦1910年大磯署管内の戸数人口、7299戸。人口41344人。署の管轄はどの範囲の地域だったのだろうか。現在の大磯町の人口3万人をはるかに超えている。

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