どんどのひ [祭]
此の町の正月を締めくくる、ドンド焼きが12日の日曜日に行われた。江戸の中期には最盛期だった漁師町のドンド焼きは、盛大な竹のオンベ飾りと、黒松が土台を固め藁で包まれ大きな塔をかたちづくる。
その数集落に合わせ9塔。どうどうどどっどと風の又三郎の、冒頭を思わせる「どんど」の火は、満月の空に燃え上がる火祭りだ。
此の町の祭りは、明治の頃からか「左義長」と呼ばれるようになったという。長州藩出身の人がこの火祭りを見て、これは「左義長」だと呟き、それまでの「団子焼き」「どんど焼き」「オンベ焼」から「左義長」と呼ばれるようになったという。左義長火事という大火が名古屋の広小路であったという記載を読んだ。日本三大広小路と呼ばれるのが江戸の時代に、上野広小路、遊行寺広小路、尾張名古屋の広小路と三箇所あったそうだ。その名古屋の広小路で左義長の行事をしたのだろう。正確にはそれ迄に日本全国至る所で左義長やどんど焼きが行われていたのであろう。正月飾りを燃して一年が新たに始まる事が儀式となったものなのだろう。火は真冬の世界に最も似合う神聖なものなのだろう。
火事と喧嘩は華といわれた時代もあった。
火が主役の祭りは、もうひとつ大事な主役があった。それは満月。今年は一月十五日が満月で、元旦は新月だった。太陰太陽暦かって明治以前の暦は月の巡りを中心に行われていた。満月の頃潮の満干も最高調に達し、人や魚やすべての命に何か巨大なパワーを与えている事が、自分の体内からも実感出来る気がする。数年前迄は此の町の左義長は、毎年一月十四日の晩と決まっていた。それは月に合わせた決まりだったのだろう。今年も晴天で寒さは厳しいが満月まじかの月と金星が寄添う天空の空が、吹き流しが流れるオンベ竹の真上に輝いていた。
満月の晩に各地で綱引きが行われる行事も多いという。隣国韓国でも昔は綱引きが行われた時代があるという。タイのデモのニュース番組を見ていて、対立する彼等が巨大な藁縄を綯って、都会の大通りで綱を引き合う光景を夢に描いてしまった。戦いを綱引きに込めたエネルギーのあった昔の世界を夢見る。今はどこの国でも藁も火を燃す広場も今は存在しないのだろう。否ひっそりとドンドの火が燃える村や町が人知れず多くある事を願うのですが。
この提灯もまさかLEDの光源ではないのだろうが、蠟燭からLEDに変わるのも時間の問題なのだろう。
紙と木の国は、藁と火の国でもあった。
海辺に道祖神さんのお札を橇に乗せ、のの字編みという固い封印の編み方で編まれた仮のやしろと、この橇を綱で引き合う為の綱が纏められている。側には双対道祖神さんの石像が団子の飾りとおわす。
はるか海上に伊豆大島の方からも此の町のドンドの火が見えるときもあるという。真冬の視界が火の点を届けてくれるのだろう。此の日の波は静か。
此の祭りの主役は子供達、漁師町の下町ではとりわけ労働力としての子供が大切にされたという。そんな子供達が主役で社会生活を知る機会が、祭りの場に込められていた。今は少子化で子供が少ない。かっての子供達が、祭りの進行を勤める。祭りの材料の藁や正月飾りも、松も竹も人手も少なくなった。それでも祭りが続けられる事は嬉しい限りだ。
賽銭箱の際は、賽の河原の賽、賽は振られたの賽。河原は海辺で、賽は大根でサイコロのかたちに切られ道きりと呼ばれる集落の境に藁縄の中央に飾られる。サイコロと女性の髪は、漁船の舟魂さまとして漁師の守り神だという。かって船大工の家も三軒以上あった時代もあるとか。鰤が一日で3万匹も獲れた漁師町の意地が、此の祭りを持続させてきた根源なのだろうか。資金難と高齢化で祭りの存続も難しくなったと聞く。寄付金付きの日本酒を二本気持ちだけだがと購入した。富士の水が酒のうまみを爽やかにして美味な酒だった。
来年もまた此の祭りに出会える事を願って、一年が日常に戻る気配を感じた。
吹き流しと、習字の字が上達するようにと海風になびく色の風。
月が蒼い空に眩しく滲んでいた。
どんどのひねがいをこめし龍となり 無音
大磯宿場 [祭]
大磯宿場祭りが、十一月十日日曜日に旧東海道の山王町松並木で行われた。江戸から品川、川崎、神奈川、程が谷、戸塚、藤沢、平塚、大磯と八番目の宿場町。江戸から来て大磯宿の入り口辺りで祭りは開かれた。旧東海道に或る商店街の方達の有志で祭りは始まったという。今年で何回目のなるのだろうかは判らないが盛況だ。今はこの旧道より南を走る国道一号線(東海道)と旧道は平行にあり、海辺には西湘バイパスがある。祭りの会場近くで、三味線の音色が風に乗り流れてきた。
江戸の時代にもこのような原色の人々は居たのだろうか。
化学染料とデジカメで再現された世界は、当時の人から見たら驚愕の世界だろう。天然の染料で染められた色は自然に馴染んでいただろうと想像する。原色の町に再現された原色の江戸の世界。
モノクロームの江戸は何故か安らぐ。修験者の出で立ちの大道芸の方か。
江戸の緋毛氈は何で緋の色を染めたのだろうか。素材もアクリルでなく綿素材だったのだろうか。それとも毛布かなと考えた。毛氈と言えばやはり毛織りであったのか。
江戸には松が似合う、それも黒松。街道には縄も似合う、それも藁縄。
赤も朱も、緑に映える。
祭りには屋台、これも似合う。
秋には紅い実も似合う
祭りで買った一袋百円の柚子 秋は黄金色の季節でもある
祭りのフリマで、一匹十円のラッコを買った。しめて五十円の海獺の箸置き也。
自然な体勢のラッコ君なので、箸も転がりにくいだろう。とぼけた猟虎で秋も暮れ行く。
江戸の時代にもこのような原色の人々は居たのだろうか。
化学染料とデジカメで再現された世界は、当時の人から見たら驚愕の世界だろう。天然の染料で染められた色は自然に馴染んでいただろうと想像する。原色の町に再現された原色の江戸の世界。
モノクロームの江戸は何故か安らぐ。修験者の出で立ちの大道芸の方か。
江戸の緋毛氈は何で緋の色を染めたのだろうか。素材もアクリルでなく綿素材だったのだろうか。それとも毛布かなと考えた。毛氈と言えばやはり毛織りであったのか。
江戸には松が似合う、それも黒松。街道には縄も似合う、それも藁縄。
赤も朱も、緑に映える。
祭りには屋台、これも似合う。
秋には紅い実も似合う
祭りで買った一袋百円の柚子 秋は黄金色の季節でもある
祭りのフリマで、一匹十円のラッコを買った。しめて五十円の海獺の箸置き也。
自然な体勢のラッコ君なので、箸も転がりにくいだろう。とぼけた猟虎で秋も暮れ行く。
2012 [祭]
大磯宿場祭りが大磯町山王町の松並木通りで開かれている。
午前中出かけてきた。今も行われているだろう祭りを思いながら撮影した画像を、撮影順に並べてみた。祭りは黒松の並木が主役だとつくづく思った。数百年の寿命の松は、此の道が東海道であった頃の箱根駅伝走者や、黒塗りの乗用車で東京に向かう吉田茂首相や、赤穂へ早馬を翔る浅野家の家臣の姿や、京都から江戸へ向かう天皇の駕篭も見おろしてきたのだとふと思った。今は東海道が南側に移り、旧東海道の大磯宿の江戸側の松並木で宿場祭りは、ご近所の有志で始まった祭りだと言う。第19回だと言うので始まってから19年の歳月が流れているのだろうか。東北大震災の去年が行われていないなら二十年の歳月か。
この町に自宅として住まわれていた吉田茂首相の家も数年前全焼した。吉田さんも街道で吉田邸復原を、侍に訴える。
日本のエネルギーは何処の国から買っているのかねと質問しているようだ。
一枚の本物の葉があしらわれた、何か潔く美しい弁当が売られている。
出し物も地元らしさが目立つ演目の演芸コーナー
穴看板というものだそうだ。観光地には多くあるが穴看板の貌を、凩が抜ける季節になった。
この町はかって鰤漁で賑わった漁師町。大漁旗の半纏が鮮やか。
士農工商全ての人々が歩いた街道を鬘が行く。
祭りには子供が似合う。
祭りの主役は黒松。
浮世絵にも描かれた山の姿を遠望する並木の祭り。
祭りの影の主役は祭屋台の人々
太鼓の響きは雨模様の前兆をも知らせ、空が灰色から墨色に変わり始める。
祭りの人、速歩で抜け去る
肩車から見た遠い日の祭りが、すぐ其所に見えた。
祭りは何か異空間を連れて来る。そこが市であった日の記憶を甦らせて
そして、足早に去っていく。
その勢いが夏の日の花火にも似て、余韻が残る。
静けさひとつ。
洗濯物と祭りと屋根と
路地では子供たちの祝祭も行われて秋から冬へ急ぎ脚
祭りは終わり 新たな祭りへの準備が見えて来る
1950 [祭]
1950年頃、昭和25年頃の湘南は大磯の下町の「お船祭り」の一枚の写真。戦後間もなくの頃の活況を見ると、鰤が大量に捕れ下町の経済が潤っていた事を示すものなのだろうか。本来は七月の17−18日に行われた祭事も、近年では土日に合わせて行われるようになった。それにしても海岸に向かい祭り船を引き廻す人々の数の多さは凄い。白いシャツと赤銅色に日焼けした肌の色が目に浮かぶ光景だ。観覧者の白いレースの日傘も当時をしのばせる。麦わら帽子も数多くみえている。
遠く堤防の上にも人がいる。上部には岩場と海が写っている。砂浜は今はコンクリートで固められた埋め立てられた漁港の駐車場になっている。
2012年現在の小田原方面を望む、こゆるぎの浜。こちら側の光景は百年前とほぼ同じ光景。海岸線が潮の流れで浸食され狭くなってはいるが。
何かモノクロームの海岸線は多くの時代が重なって見える。
母と子の祭り、六十年前の夏の母子も出かけた祭り。
砂浜の上を歩んだ木の車も今は、アスファルトの下町の道を少しだけ移動する。電線をよけ幟を降ろし、操り人形も倒した状態で、電線を潜りぬける。
木札に奉納者の名と年号が書かれていた。墨の文字も鮮やかに揮毫した人の生は定かでないが、奉納された飾りは昨日造られたような針の目の跡があった。
ゆっくりと、千鳥が色褪せた藍の海を飛ぶ、風が強いのか千鳥は同じ位置から動かない。かってこの海には千鳥や鶴がいたのだろうか。小鳥の啼く今朝の夏の朝が、今年始めて聞いた蝉の声に変わった。
古くは伊勢迄水路があった名残の伊勢音頭も謡われる。
夏の闇に封印するように、今年も祭りは終わった。
2012年7月夏日
2012 [祭]
湘南は大磯という町の下町に、長く続いている夏祭りがあった。「お舟祭り」
下町は鎌倉時代以前からあったであろう漁師の町だ。今は陸にあがったサラリーマンの人々が多いようだが、下町の人々の結束は強い。祭りの起源は「流れ仏信仰」にあるようだ。古代の神々も遠く海の彼方から流れ着いたのだろうか。応神天皇の御代に一人の漁師が、照ヶ崎という海岸の海底が光を発するのを見たという。舟を出し網を投じてみると、大きな蛸に抱かれた千手観音が引き上げられたという。観音は高麗寺に安置され、寺から毎年海を渡って照ヶ崎の海岸まで、戻られる神事となっという。
数百年の祭りを見おろす神がいた。
お船は、いつの頃からか陸の道を照ヶ崎迄曳航されるようになった。舟の上では木遣りに似た、様々な音頭が謡われる。ほおかむりの姿も神に対する姿勢のひとつなのだろう。
漁師は名字帯刀を許され、江戸時代に舟の名は権現丸、明神丸となっていたという。明治になって権現丸と言う名は禁止され、明神丸となったという。木の組み立てられる舟は二艘出る。二艘の明神丸は何故か大陸的だ。京都祇園祭の山車も舟とは言わなかっただろうか。山が正式名称だったか。大磯の舟は遠く高句麗の国から人々を乗せてきた渡来人の姿をも連想させる。漁師町にとって舟とはかけがえのない道具以上のものだし。帯刀をゆるされた一族の背中も見える。
神輿はかって海に入り、神事は終えたというが、今は海には入らない。輝く神輿が海にならぶ姿は壮観だが、時代と共に神事の内容も変化している事に何か安堵した。祭りの精神は人々の中で生き続けている。かって下町の人々だけの祭りであったろう祭りのしきたりには外からの人々も多く参加している。神輿の群れには、高麗、山王、神明、北下、南下、北本町、南本町、茶屋町、御嶽神社、等の名があった。今朝も昨日迄のお囃子や、神輿の渡御の歓声が耳に残っている。
今年はまだ、蝉の声を聞いていない。
下町は鎌倉時代以前からあったであろう漁師の町だ。今は陸にあがったサラリーマンの人々が多いようだが、下町の人々の結束は強い。祭りの起源は「流れ仏信仰」にあるようだ。古代の神々も遠く海の彼方から流れ着いたのだろうか。応神天皇の御代に一人の漁師が、照ヶ崎という海岸の海底が光を発するのを見たという。舟を出し網を投じてみると、大きな蛸に抱かれた千手観音が引き上げられたという。観音は高麗寺に安置され、寺から毎年海を渡って照ヶ崎の海岸まで、戻られる神事となっという。
数百年の祭りを見おろす神がいた。
お船は、いつの頃からか陸の道を照ヶ崎迄曳航されるようになった。舟の上では木遣りに似た、様々な音頭が謡われる。ほおかむりの姿も神に対する姿勢のひとつなのだろう。
漁師は名字帯刀を許され、江戸時代に舟の名は権現丸、明神丸となっていたという。明治になって権現丸と言う名は禁止され、明神丸となったという。木の組み立てられる舟は二艘出る。二艘の明神丸は何故か大陸的だ。京都祇園祭の山車も舟とは言わなかっただろうか。山が正式名称だったか。大磯の舟は遠く高句麗の国から人々を乗せてきた渡来人の姿をも連想させる。漁師町にとって舟とはかけがえのない道具以上のものだし。帯刀をゆるされた一族の背中も見える。
神輿はかって海に入り、神事は終えたというが、今は海には入らない。輝く神輿が海にならぶ姿は壮観だが、時代と共に神事の内容も変化している事に何か安堵した。祭りの精神は人々の中で生き続けている。かって下町の人々だけの祭りであったろう祭りのしきたりには外からの人々も多く参加している。神輿の群れには、高麗、山王、神明、北下、南下、北本町、南本町、茶屋町、御嶽神社、等の名があった。今朝も昨日迄のお囃子や、神輿の渡御の歓声が耳に残っている。
今年はまだ、蝉の声を聞いていない。
1946 [祭]
2012 [祭]
2012年の湘南大磯の左義長のドンド焼サイトが勢揃いした。風になびく吹き流しは今年を元気にしてくれそうだ。点火は1月14日午後七時に九つのサイトに一斉に火が放たれる。詳しくは
http://27.pro.tok2.com/~oisokankou/12sagi-osirase.htm
千四百年前の祭 [祭]
今から千四百年前の推古天皇の時代、中国から旧暦が伝来したとき、日本にはもう一つの太古歴という別の暦があったという。旧暦は月の満ち欠けを新月からの基準とするのに対し、太古歴は満月を基準としたという。太古歴では満月から月が始まった。一年の最初も満月から当然始まった。昨日は「小正月」と呼ばれるが、大正月の新暦に対し太古歴の正月が小正月にあたる。昨日の左義長は新年のはじめの行事となる。日本人の祖先は明るい満月の夜に先祖を祭り、収穫を祝った。こんな事を思っていたとき、ある方から左義長のたなびく吹き流しをみて、チベットの祭りを連想したという。大陸から様々な文化がこの国に渡ってきた。満月の日に綱引きをする習慣も大陸渡来という。昨晩の大磯でも海岸と陸地に別れ綱引きが行われた。
さまざまな遺伝子を継いできた祭りの精神は不滅と思えてきた。
沢山のコメント有難うございました
全国でも多様なドンド焼が結構残っていて行われた事を知りました。
邪悪な精神を焼き尽くす聖なる火のパワーを願い
新たな一年の始まりを感じました
69年前の左義長 [祭]
数日前インドにおられるSさんからメールを戴いた。インド巡礼中のSさんは文豪島崎藤村の親戚にあたる。メールでは去年の11月『藤村の旅路』という水彩画集を出版された旨が書かれていた。71枚の水彩画は藤村の年齢と同じ数だそうだ。その本の1頁に「大磯の左義長」が描かれていました。町で唯一の書店で購入したのは昨日の事です。
昭和16年1月14日島崎藤村は左義長見物で大磯を訪れたそうだ。今から69年前の冬の日。
毛布をかぶり左義長の火を観て感動した文が、画集の中にあった。
画集の表紙は
画家の名は島崎古巡(本名 博)さん
島崎藤村はこの左義長の見物で大磯が気に入り 昭和18年夏に亡くなる迄大磯に住んだ。
毛布を目深にかぶり海岸を歩いた藤村一向の姿が浮かんで来る。
2011年この日も無事サイトの火は午後7時に点火され、今年の恵方である南南西へサイトは倒された。