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5月09日 [俳句]

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俳句の俳の文字は、人に非ずと書くのは何故なのだろうか。新漢語林には、わざおぎ、芸人、俳優とある。そうか俳優の俳も同じだった。
おどけ、戯れ、滑稽の意味もあるという。常識に背いた一風変わった振る舞い、おどけの意味ともある。
俳諧とは、正統的な和歌に対し、滑稽味を帯びた和歌。
連歌の一体。洒落や俗語を用いた卑俗、滑稽なもの。ともある。

正統な和歌は、呪歌から発生したとも聞いたことがある。




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1974年の夏か初夏のことだったろうか、今から42年前私は大阪にいた。テレビでガラスの破片が散乱する路上が映され、東京丸の内のオフィス街で三菱重工爆破事件が起きたことを知った。
従姉妹が事件現場近くのオフィスビルの会社で秘書をしていたので電話を入れ無事を確認した。

私が20代の出来事だった。数年前にこの句集に出会うまでは自分の20代を振り返ってみることもなかった。句集の名は「棺一基」2012年の刊。

著者の大道寺将司は、1948年生まれ、東アジア反日武装戦線「狼」のメンバーで、連続企業爆破事件を起こし1979年東京地裁で、死刑の判決、1987年最高裁で死刑が確定、2010年多発性骨髄腫の癌で獄中の闘病生活を送っているという。そんな彼が二冊の句集を出した。

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2012年の句集『棺一基』から
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「棺一基四顧茫々(しこぼうぼう)と霞(かす)みけり」から採られた。霞は春の季語。「四顧」とあるからには、そこにまわりを見渡す者がいる。それは誰なのか? 木棺に横たわる死者か。
 私はここに、霞の中にたたずんで自らの屍(しかばね)が入っている棺をみつめる、死者その人のまなざしを感じる。白い闇が際限なく広がる。その中心に木棺が一基のみ、孤絶に、そこにある。このように死と向き合って一日一日を生きる。それが死刑囚の毎日だ。
「死者の書」を思い出してしまう、生きていることのありがたさが霞の中に見えてくる。
人も獣も生きているものは100パーセント死ぬのだが、他者から己が命を奪われる気持ちは嫌な世界だ。

   生きてあることの宜しくづくの鳴く    大道寺将司

づくとは、ミミズクのことだそうだ。ならば深夜の連想句だろうか。
何か希望と絶望の低音の鳥の声が聴こえてくる。

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命の重みを感じてしまう

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  黴とこそ見ゆるものあり拭いけり   大道寺将司

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      九条も螻蛄の生死も軽からず    大道寺将司




子供の頃、螻蛄(ケラを捕まえては)「お前の憲法どのくらい!」と螻蛄の両手を広げさせ遊んだ光景を思い出す。あの後ケラは大地に戻されたのか記憶がない。









     縮みゆく残の月(のこんのつき)の明日知らず    大道寺将司第二句集より










3月31日 [俳句]

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長谷川かな女の句。


春の夜の襖とじたる二人哉


と、詠んだのだが、違うかな?
二人のうちの、一人がかな女では、


  襖より もののけ色や春爛漫      むおん


今日は鎌倉源氏山へ花見です。車中から


春の河渡りてめざす源氏山    無音








3月4日 [俳句]





光の底に春が眠っている むおん





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雛祭り終わりて色を並べけり むおん




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一冊の句集開きて春が舞う むおん


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2月2日 [俳句]

長崎に行けよと言いし芥川龍之介
亡き長崎を見し 直木三十五



龍之介が自死した後に、長崎に行った直木三十五が揮毫した短冊だろうか。
芥川賞と直木賞作家の二人が仲良く短冊の中にいる、好きな短冊です。


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萎びたる蜜柑の精の二つあり むおん







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1月22日 [俳句]

崖の道下りれば家よ今年竹 秋元悟楼


今年竹は、季語が夏。筍や、今年生え出した若竹や、新竹のこと。この短冊を手に入れたときから、崖の下という、上句が妙に気になっていた。今朝新聞を見て何か共感を覚えた。句の作者、秋元梧楼は、夏目漱石の俳友であり、大正元年に漱石揮毫の「明治百俳家短冊帳」を作っている。
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「崖」という存在が、漱石作品の「門」の中で重要なメタファーとして描かれたのではと、姜さんは指摘する。
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崖という文字が、そのまま切り立つ崖のように、力強い。門の主人公の家は、崖下にあった。
崖の上の人々の狂宴や、生活の気配が、崖下の竹薮に生え出した、筍で浄化されるような句だと想うのは考えすぎだろうか。姜さんは、漱石はデフレの文学という。福澤諭吉が好まれるインフレの時代は終わったともいう。
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「門」の中で静かに語られる、伊藤博文公暗殺の時代。満州に出かけた漱石が見た日本の姿。
今年竹は、崖の高さには達しないが、何か深い愛の象徴のようにも思えます。
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漱石の作品の中の崖と、句の中の崖が
同じかは、わからないのですが、深いつながりを感じました。俳句とは不思議な世界です。

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陽だまりに夏の短冊手にとれば むおん



六月二十二日 [俳句]

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昔 東京の谷根千で買った縄跳びをする少女 レーザーカッターで薄い金属板を切り抜き、その影も切り抜いて跳んでいる。夏の日差しの影がもう一つでき、二つの影が面白い。
俳句という17文字の制約の中に、谷根千で買った少女という記憶を重ね、俳句の文字を重ねてみた。俳句という存在には、文字で伝達するという機能と、自分の思いを込めるという機能がある。俳句を読んだ人と、作者の思いの隔たり。小説にも新聞にも書かれた文字と、それを読む人の隔たりは存在する。俳句という構造の中で、十七文字の日本語は思ったより多くの情報を伝えることができるそうだ。アルファベットの17文字では含まれる情報は少ない。日本語が一文字に広い意味での多くの情報を持つことに嬉しさを感じる。それが曖昧な記号として断定され変化していくのだろうが。曖昧さを持つ領域が好きだ。

昭和8年(1933)花水川河口に二万坪の敷地の松竹撮影所構想、平塚市と会社は交渉中という。結果、神奈川県大船に撮影所は蒲田から移転、その大船撮影所も今はない。
昭和11年 湘南大磯沖で沈下の潜水艦は魚礁として好成績。潜水艦は事故で沈んだのだろうか。

六月二十一日 [俳句]

死にゆくを他ごととしたり蛇の飢    中原道夫俳句日記より、六月二十一日から。
因みに明日の句からは、   をののきて青柿の蔕外れたる 中原道夫作品集成弐より

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昭和43年まで、湘南大磯の国府祭(こうのまち)は、六月二十一日と二十二日におこなわれていた。現在は新暦の五月五日。元々は農具市があり、平安時代から続く相模国第一の祭典である。

三月十五日 [俳句]

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擦りゆけど蹠は減らず西行忌 中原道夫

いかに旅を続けて、藁草履の底はすり減っても、わが足の底は減っていない。身を削り心を捨てて旅というものは何なのか西行法師に訪ねたい。
何冊か中原道夫さんの句集は持っていますが、俳句日記の三月十五日から抜粋させていただきました。初めて出会った句、「瀧壺に瀧活けてある眺めかな」の一句が鮮烈で忘れられません。今も白い花を満開にした瀧が青空に向かい活けられている姿を豪快に思い浮かべると喜ばしい気になります。

もう一句 「右は奈良左は奈落さくらがり」


もうすぐ「花」の季節です


花といえば、桜 日本では10種
世界には100種の桜があるそうです
確か 薔薇科でしたっけ

枝垂れ桜は、枝を地面に向かわせる奇形腫だと読んだことがあります。
人も年をとると手を落として歩きます。老木は枝を支えきれず枝を垂れるようになるとも聞きました。満月の夜の桜は、生命力に満ちとても美しいと言います。何か素直に以上のことが心に染みる季節です。

隧道をぬけてくろぐろ花の雨  ムオン




一月三日 続き [俳句]

飛馬(ひめ)始め - 乗馬初めの日。『梁塵秘抄』の用字であるといい、しかし別に「馬乗始」があるから当たらないとしりぞけられる。
火水(ひめ)始め - 火や水を初めて使う日。
女伎(ひめ)始め - 衣服を縫い始める日。
秘め始め - 夫婦が初めて秘め事をする日。
姫糊始め - 女性が洗濯・張物を始める日。
日見始め - 『理斉随筆』の説。

となにやら年の始めのことは大切なことだと思うばかりです。
昭和3年のこの日、東海道線大磯駅に到着、御来磯の東久邇宮盛厚王と影常王の両殿下は、当時13歳と9歳。このお二人が大磯のどこに向かわれたかは興味が深まるが、湘南の地、大磯は夏の海水浴客ばかりでなく避寒地の場所でもあったことが興味深い。当時の東京と大磯では気温差もどの位あったのだろうかと考える。

一月三日 [俳句]

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年末家中の短冊の額の入れ替えを行った。短冊天狗なる言葉があって、江戸の頃にか、著名人の短冊を収集することが流行ったようだ。こちらは天狗にもならない十数枚の短冊を季節に合わせて架け替え、眺めては詠み楽しんでいる。写真は増田龍雨の句「ひめ始 八重垣つくる深雪哉」金と銀の短冊の配色の比が粋で、銀化した紙の歳月も時代を物語る。龍雨は、明治七年生まれで、昭和9年に60歳で没した俳人で、遊郭の書記をしていたという。遊郭の書記とはどのような仕事だったのだろうか。京都生まれで義父は雷堂龍吟といったという。三田文学の久保田万太郎が好きな俳人で、『龍雨俳話』は有名。龍雨の句で、「又ひとつ寄席なくなりし夜寒かな」は好きな句。八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を
上は日本最初の三十一文字和歌と呼ばれ、「八雲」とは、歌を詠むことをさすとも言うそうです。
短冊の「ひめ始め」は諸説あって、姫始め(ひめはじめ)とは、頒暦(はんれき)の正月に記された暦注の一。正月に軟らかく炊いた飯(=姫飯(ひめいい))を食べ始める日とも、「飛馬始め」で馬の乗り初めの日とも、「姫糊始め」の意で女が洗濯や洗い張りを始める日ともいわれる。
1月2日の行事であるが、由来は諸説あってはっきりしておらず、本来は何をする行事であったのかも判っていない。一般には、その年になって初めて夫妻などがセックスすることと考えられている。
かつての仮名暦の正月の初めに「ひめはじめ」とあったのが、その解釈をめぐって多くの説が生じたものである。真名暦には「火水始」とあった。卜部家の秘説があるといわれた。
最も有力な説は、正月の強飯(こわいい。蒸した固い飯。別名「おこわ」)から、初めて姫飯(ひめいい。柔らかい飯)を食べる日というものである。昔は、祭の間には強飯を食べ、祭が終わると姫飯を食べていた。
ーーーーー以上ウイキペディアより

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