7月06日 [樹]
赤松の盆栽を去年箱根で求めてきた。50本程の実生の群生のもの。
小さな鉢に根がびっしりと生え、水をはじく様に鉢がなったので、移植をした。
大都会の人口密集地に住む生物は、身体を小さく保つ気配が、赤松の根から感じられた。
大物は田舎の夏にすくすくと 無音
小さな鉢に根がびっしりと生え、水をはじく様に鉢がなったので、移植をした。
大都会の人口密集地に住む生物は、身体を小さく保つ気配が、赤松の根から感じられた。
大物は田舎の夏にすくすくと 無音
十月二十五日 [樹]
九月一日 [樹]
椰子という植物は、恐竜の時代から生き延びのびてきたのだろうか。その鱗のような木肌に何か熱帯の息吹も感じる。溶岩が似合うような樹木だ。空にいっぱい葉を広げ生命感に溢れている。
大正十二年九月一日 吉田健一、十一歳は箱根富士屋ホテルに家族と一ヶ月以上滞在、関東大震災を箱根で体験、難を逃れた。健一の父は戦後総理大臣となる吉田茂で、相模湾の中央付近の海辺の大磯に幼少時代から別荘があり、のちに本籍も大磯に移し吉田御殿と呼ばれた。
その十年後湘南大磯の別荘地帯は倒壊したもの廃虚のままで、復興の兆しなし。本宅がほとんど東京にありその復興に追われ、別荘までは手が回らなかったのだろう。震災当日大磯の海岸で人々は、小田原方面から鎌倉方面に東行する津波を見たという。震源地と地震の規模により津波は沖合いからくるものとは限らないのだろう。相模湾を西から東に向かった津波は、鎌倉の河川に入り海沿いに大きな被害を出したという。
地震(なえ)奔る深き記憶の闇の秋 無音
三月二十日 [樹]
昭和18年3月20日 湘南大磯の東海道松並木の松、晴れの応召。平塚市では70本、国府20本、大磯5本、二宮5本、計100本の松を艦船用木材として供出。樹齢400年の老木なども含まれていた。
平成27年現在も、東海道国道一合線の下道路付近に樹齢400年を越す黒松の老木は数本残っている。その直径は1メートル半以上はありそうだ。
「晴れの応召」と松の巨木は、どんな艦船に利用されたのだろうか。
その100本の切り株の一部や、根は今もある場所があるかもしれない。
先日書いた「昨日までの世界」ジャレド・ダイヤモンド著で、地球上に国家が誕生したのは紀元前3400年くらい前の三日月型肥沃地帯のメソポタミアや、メキシコ、中国、アンデス、などの地域だったという。今から5400年前の時代か。
地球上に文字が使われるようになったのが、5400年前位という。
農業の生産向上で多くの人間を生存させる条件が整ってからのことか。
文字も国家の道具として権威と、記録のために生まれたのだろう。
国家以前の、少数民族は今も地球上に暮らしている。
今から75年前の、1931年ニューギニア高地を飛ぶ白人の飛行機が、ジャングルの中に石器時代の道具を持つ人々が住む集落を発見した時、高地には凡そ100万人もの人々が暮らしていることが分かったという。地球上でもこのニューギニア周辺の人々の言語の種類は数多く、数百の島々を加えると数百の少数民族が暮らしていたという。その民族単位での境界線の話が非常に興味深い。山の民と、川の民の縄張りとなる境界線は尾根にあったという。その境界線を犯して侵入すると侵入者を殺してしまうという。
しかしあらかじめ連絡して縄張りを通過して行く道は、なぜか確保できるのだという。お互いの集団の取り決めと、境界線の引き方が小国家のようで面白い。細胞が免疫で外部からの侵入者を遮断し、または受け入れるメカニズムをも連想してしまう。
台湾の霧社事件を主題の映画「セデック・バレ」では、冒頭狩りをする少数民族の少年が、他の対立する部族に襲われるシーンから始まる。台湾の高地の自然と、部族同士の境界線。美しい台湾の自然も思い出してしまった。
1930年 台湾の山奥に虹を信仰する民族がいた。ある時海を隔てた北方から、太陽を崇める民族がやってきた。二つの民族は出会い、互いの信じるもののために戦った。
しかし彼らは気づいていなかった。
虹も太陽も、同じ空にあるのだと・・・・・。
1895年から50年間続い台湾の日本統治時代。その中で1930年原住民族による武装蜂起事件が起きた。台湾の映画監督ウエイ・ダーションは漫画で霧社事件を読み、映画化を決意、4時間36分に及ぶ大作を作った。
第一部「太陽旗」は苦しい生活を強いられたセデック族の人々が誇りをかけて蜂起するまでの144分。第二部は「虹の橋」日本軍と警察の報復、憎しみや家族愛による悲劇の終末132分。日本人にも必見の映画でした。
40年近く前、アメリカのニューシネマとして「ソルジャーブルー」「小さな巨人」を見た頃の感動が蘇りました。
平成27年現在も、東海道国道一合線の下道路付近に樹齢400年を越す黒松の老木は数本残っている。その直径は1メートル半以上はありそうだ。
「晴れの応召」と松の巨木は、どんな艦船に利用されたのだろうか。
その100本の切り株の一部や、根は今もある場所があるかもしれない。
先日書いた「昨日までの世界」ジャレド・ダイヤモンド著で、地球上に国家が誕生したのは紀元前3400年くらい前の三日月型肥沃地帯のメソポタミアや、メキシコ、中国、アンデス、などの地域だったという。今から5400年前の時代か。
地球上に文字が使われるようになったのが、5400年前位という。
農業の生産向上で多くの人間を生存させる条件が整ってからのことか。
文字も国家の道具として権威と、記録のために生まれたのだろう。
国家以前の、少数民族は今も地球上に暮らしている。
今から75年前の、1931年ニューギニア高地を飛ぶ白人の飛行機が、ジャングルの中に石器時代の道具を持つ人々が住む集落を発見した時、高地には凡そ100万人もの人々が暮らしていることが分かったという。地球上でもこのニューギニア周辺の人々の言語の種類は数多く、数百の島々を加えると数百の少数民族が暮らしていたという。その民族単位での境界線の話が非常に興味深い。山の民と、川の民の縄張りとなる境界線は尾根にあったという。その境界線を犯して侵入すると侵入者を殺してしまうという。
しかしあらかじめ連絡して縄張りを通過して行く道は、なぜか確保できるのだという。お互いの集団の取り決めと、境界線の引き方が小国家のようで面白い。細胞が免疫で外部からの侵入者を遮断し、または受け入れるメカニズムをも連想してしまう。
台湾の霧社事件を主題の映画「セデック・バレ」では、冒頭狩りをする少数民族の少年が、他の対立する部族に襲われるシーンから始まる。台湾の高地の自然と、部族同士の境界線。美しい台湾の自然も思い出してしまった。
1930年 台湾の山奥に虹を信仰する民族がいた。ある時海を隔てた北方から、太陽を崇める民族がやってきた。二つの民族は出会い、互いの信じるもののために戦った。
しかし彼らは気づいていなかった。
虹も太陽も、同じ空にあるのだと・・・・・。
1895年から50年間続い台湾の日本統治時代。その中で1930年原住民族による武装蜂起事件が起きた。台湾の映画監督ウエイ・ダーションは漫画で霧社事件を読み、映画化を決意、4時間36分に及ぶ大作を作った。
第一部「太陽旗」は苦しい生活を強いられたセデック族の人々が誇りをかけて蜂起するまでの144分。第二部は「虹の橋」日本軍と警察の報復、憎しみや家族愛による悲劇の終末132分。日本人にも必見の映画でした。
40年近く前、アメリカのニューシネマとして「ソルジャーブルー」「小さな巨人」を見た頃の感動が蘇りました。
三月十八日 [樹]
明治22年川尻宝岑46歳大磯に海水浴に来る。依田学海『学海日録より』
この川尻宝岑さんの「岑」の字が入力できませんでした。字形から、「コン」又は「キン」と読みましたが、ネットで「山に今という字で?」と入力して『岑』が見つかりました。
《意味》. みね。山が切りたった高い所。また、鋭く切り込んだように険しいさま。 高くて先が とがる。けわしい。するどい。 【岑岑】しんしん. 頭などがずきずき痛むようす。 「頭が岑岑と 痛む」. 【岑】みね. 山のひときわ高くなった所。山のいただき。頂上。山頂。 とありました。
三月の中頃、宝岑さんは海水浴をしたのでしょうか。当時の海水浴は潮の流れの強い場所で棒杭につかまりじっとして海水に揉まれたようです。さながら強烈なジャグジーバス状態でしょうか。
気になって宝岑さんを検索したらデジタル版 日本人名大辞典では、以下
川尻宝岑 かわじり-ほうきん
1843*-1910 明治時代の歌舞伎作者。
天保(てんぽう)13年12月18日生まれ。江戸の鼈甲(べっこう)問屋角屋の8代川尻彦兵衛を相続。9代市川団十郎としたしく,歌舞伎新作「新開場梅田神垣」「文覚上人勧進帳」など,おおくの脚本を執筆した。心学にも通じた。明治43年8月10日死去。69歳。本名は義祐。別号に一竿斎宝洲,忘路庵。
人名は難しいですね。カワジリホウキンさん、ホウシンさんとも呼ばれていたんでしょうね。なぜかチャーリー・チャップリンが、シャルル・シャップランとフランスでは呼ばれているんだという話を思い出しました。
言葉は楽しいですね。言葉は怖い世界でもあるのですね。
「積極的平和主義」「消極的平和主義」どっちが必要なんだろう。
ミモザの満開の花の奥に、繊細なミモザの葉が見えました。花を愛でるより、葉や木の枝が、花を支えているという、当たり前のことを考えてしまいました。花と葉と枝と幹と大地に根をはる自然の摂理、あたりまえの光景が今朝も素敵に見えてきます。
大正4年のこの日、湘南高麗山の山頂付近の老松、一日数回火を噴き煙が立ち上がると風評。巡査をこの日派遣する。驚いたことにカゲロウの大集団が真相だった。今から100年前の話。
平成27年の今日、朝の散歩で山中の道路で大きな蟇の車にひかれた姿を見た。国道1号線のすぐ脇の草むらでは大きな蛙が静かに潜んで生きていた。
驚蟄と書くからに地震(ない)起るらし 中原道夫
俳句では地震は、ナイと読み、台湾では啓蟄は、驚蟄と書くらしい。
この川尻宝岑さんの「岑」の字が入力できませんでした。字形から、「コン」又は「キン」と読みましたが、ネットで「山に今という字で?」と入力して『岑』が見つかりました。
《意味》. みね。山が切りたった高い所。また、鋭く切り込んだように険しいさま。 高くて先が とがる。けわしい。するどい。 【岑岑】しんしん. 頭などがずきずき痛むようす。 「頭が岑岑と 痛む」. 【岑】みね. 山のひときわ高くなった所。山のいただき。頂上。山頂。 とありました。
三月の中頃、宝岑さんは海水浴をしたのでしょうか。当時の海水浴は潮の流れの強い場所で棒杭につかまりじっとして海水に揉まれたようです。さながら強烈なジャグジーバス状態でしょうか。
気になって宝岑さんを検索したらデジタル版 日本人名大辞典では、以下
川尻宝岑 かわじり-ほうきん
1843*-1910 明治時代の歌舞伎作者。
天保(てんぽう)13年12月18日生まれ。江戸の鼈甲(べっこう)問屋角屋の8代川尻彦兵衛を相続。9代市川団十郎としたしく,歌舞伎新作「新開場梅田神垣」「文覚上人勧進帳」など,おおくの脚本を執筆した。心学にも通じた。明治43年8月10日死去。69歳。本名は義祐。別号に一竿斎宝洲,忘路庵。
人名は難しいですね。カワジリホウキンさん、ホウシンさんとも呼ばれていたんでしょうね。なぜかチャーリー・チャップリンが、シャルル・シャップランとフランスでは呼ばれているんだという話を思い出しました。
言葉は楽しいですね。言葉は怖い世界でもあるのですね。
「積極的平和主義」「消極的平和主義」どっちが必要なんだろう。
ミモザの満開の花の奥に、繊細なミモザの葉が見えました。花を愛でるより、葉や木の枝が、花を支えているという、当たり前のことを考えてしまいました。花と葉と枝と幹と大地に根をはる自然の摂理、あたりまえの光景が今朝も素敵に見えてきます。
大正4年のこの日、湘南高麗山の山頂付近の老松、一日数回火を噴き煙が立ち上がると風評。巡査をこの日派遣する。驚いたことにカゲロウの大集団が真相だった。今から100年前の話。
平成27年の今日、朝の散歩で山中の道路で大きな蟇の車にひかれた姿を見た。国道1号線のすぐ脇の草むらでは大きな蛙が静かに潜んで生きていた。
驚蟄と書くからに地震(ない)起るらし 中原道夫
俳句では地震は、ナイと読み、台湾では啓蟄は、驚蟄と書くらしい。
1949 [樹]
私が生まれた横須賀の家には一本の大きな椿の樹があった。正確には根元が2本か3本の幹があり寄せ植えされている様な趣にも見えた。花は赤と白と絞りの花の3種類が咲いた。幹の途中で接ぎ木をしたようで、樹形の中では入り乱れて咲いているように見えた。赤は山椿系の一重で朱色がかった濃い赤の年もあれば、濃い紅色に感じる年もあった。毎年咲く色が違って見えるのは気候条件や、接ぎ木による為などから色素に変化が生じる為だったのだろうか。赤と白の絞りはそのバランスが様々で好きだった。白い花は毎年咲く数を少なくしていった。樹齢80年程はありそうな太さだった。祖父が植木が好きであちこちから持って来た樹木を植ている家だった。崖の斜面には大きな夏みかんの木が4本程点在していた。根元が大きな棘のある枝で、カラタチの木に夏みかんを接ぎ木したものだと後から知った。十センチ程の鋭い棘のシルエットが美しかったのを覚えている。台風が来ると落下して下のうちのトタン屋根を直撃し大きな音を立て迷惑を掛けた。
私が生まれた家は60段以上の石段を昇った南斜面にあった。夏みかんの樹はあちこちの家で見かけ横須賀らしい光景を感じさせていた。石段をのぼり上にも何軒かの家があった。
小さな門に格子戸がつき夜にはこの門に裸電球の街灯が灯った。南に廻ると玄関があり違い戸の硝子の沢山入った建具が入っていた。其の隣りに廊下が続き東側にトイレがあった。男子用の朝顔と、金隠しの入ったものの二部屋に仕切られていた。外には南天と八つ手の木に手水鉢が収まっていた。廊下の奥は六畳間で東側に床の間、廊下側に「清風千里夢」と書かれた額が長押にかかり、北側が四畳半だった。玄関をあがっても四畳半で正面に神棚があった。其の奥が台所で、三畳と板の間一間、ちゃぶ台が置かれていて西向きに仏壇があった。板の間の下は漬け物や、諸道具の収納があり、東側の土間に続いた。土間には半分だけ井戸が土間側にありブリキの蓋がされていて、北側の外から井戸水を組上げた。最初は土間側にポンプがついていたのかも知れない。井戸の東は流し台になり、其の又東側が風呂場になっていた。風呂は木製で小判形のもので焚き口の上に上がり湯があった。薪は最初は周辺から調達したようだが、ある時から石炭になり、湯の具合がひりひりと感じ嫌だった。風呂の煙突も古くなると火の粉が家に落ちたり山に飛び火事になら内容に見張りに出る様な時もあった。
土間には南側にへっついと呼ばれる釜戸がありこれも薪で使用した。窓は無双窓と呼ばれる木の板をスライドすると光と風の量が調整出来る方式だった。手前の部屋は炭小屋で練炭火鉢や餅つきの臼や杵が収納され、ある時から石炭小屋に変わった。こんな家で1948年の冬私は生まれた。お産婆さんが家に着く前自力で誕生してしまったとは後から親に聞いた話である。この家で兄の祝言も行われたという事も思い出します。今は大きなマンションが建ち跡形もなくなった光景です。
東側の突き当りに大きな棕櫚の木があったのを思いだしました。葉を伐ると上へ上に延び仕舞いには葉に届かなくなってしまった木です。
榺締(ちきりじめ) [樹]
先週の土日、神奈川県は西部の足柄森林公園丸太の森まで、桧のテーブル造りの教室に参加して来た。畳み一畳程のサイズの天板を四枚の厚さ40ミリの桧板を繋ぎ、仕上げる教室だ。指導員の方の丁寧な説明と、現場の熱のこもった生徒さんたちの気合いで、無事に仕上がったテーブルは今家に運び込まれている。その作業の中で「ちぎり」という木の部品を埋め込み、板の割れをとめる機能や、装飾的な効果を与える、古来からあるであろう、締め方に興味を持った。基本的には蝶形の「ちぎり」のかたちが多いようで、何とも美しいかたちだ。
三色のチギリの素材は、左から、黒檀(こくたん)、タモ、欅。共に固い素材の木でその効果を発揮するようだ。
その言葉の説明は、小学館「国語大辞典」から以下のようにあった。家紋の「ちぎり」は平安時代から、既にあると云う。糸巻きを「ちぎり」と呼ぶことも始めて知った。
今回は七カ所に「ちきり締め」を三色の木を活かして制作した。仕上がりテーブルの全容は次回のブログで掲載予定です。
チギリのかたちを板に写す、ケ書きというカッターナイフで切り込みを入れる作業が最も神経を使った。後は鑿でチギリのかたちを彫り込んで行く。桧の香りが垂直に打ち込まれる鑿の刃先からあがって来る。
天板の中央部分に三色のチギリを並べて完成。打ち込まれて余った高さは鋸を板に押し付けるように、浚うようにして切り取り、サンダーで天板表面を表面を平らにする。
完成品の天板の側面にはサインを電熱ペンで描き込んだ。
もう一方にも「丸太の森」の焼ごてで、和のイメージをさりげなく。
6組のテーブルが完成、皆さん雨に備えた養生をして車に積み込んだ。お疲れさまでした。
我が家にあった、長さ1m強の巨大な「ちぎり」糸巻きである。織物の縦糸を巻き取るには長いサイズが必要なのだろう。
片方の割れを防ぐ為に修理した斜めに渡されたチギリ。榺に施された、もうひとつの榺。
紅き糸 榺の榺 秋の背に 未完