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二月二十八日 [言葉]

今朝も「高さ」について考えています。なぜ高さが気になるのかというと、目線の高さが何か人間にとって、否生き物にとって非常に重要なファクターなのか気になるからです。
新聞にある国の皇太子と、我が国の天皇が挨拶を交わす写真を見て、即座にある写真を思い浮かべてしまったのです。それは昭和天皇とマッカーサー元帥の二人が映る写真です。背の高さが総てではないけれども、見おろす視線と、見上げる視線に何かを感じるのです。物理的な高さと、精神的な高さは比例しないのですが。
辞典で「高い」とは何か引いてみました。『空間的に基準点より上にあること』高い低いは、確かに、ある基準点より上か下かで高い低いが決まるのですね。この場合基準点とは何かが問題ですね。二者の対比で高いか低いか。あくまで比較論になるのですが。
上下関係という言葉にも、支配する、尊敬する、命令する、指導される等、位置関係で立場の存在が際立つ様子がみられます。


ある写真家が、最近の少年犯罪記事で憤慨しているコメントが気になりました。13歳の少年の被害者を「被害者◯◯さん」と、さんづけで呼ぶのは、大人の無責任さが極まるというコメントです。テレビや新聞の総てをチェックしたわけではないですが、確かに「被害者◯◯さん」という記事が目立ちます。本屋の店頭で週刊誌をめくると二誌では、「被害者◯◯君」という記述がありました。18歳と17歳の少年が容疑者として逮捕されたという記述もあります。
写真家は、「さん」づけは大人からみた目線が、横並びであり、被害者本人を庇うという気持ちがない「言葉」だというのです。上から目線に近い「君」づけには、大人の子供を守るという視線が含まれる言葉だというのです。「言葉」は微妙な問題ですが何か象徴的に何ものかを浮かび上がらせる力が大きいと常々思っています。

少年、子供、大人、保護者、保護責任、選挙権、成人、老人子供、現在のその実態は何なのでしょうか。

新聞に言葉の食感という、楽しい記事を見かけました。
都下◯◯市という記述は、都心より下位にある市という感じなのかから始まり、京都の方が東京に来るのは「上京」とは言わず、「東京入り」。
日本人は上司には、「報告」をし、上司からは「通達」を受ける。
上から目線では、「気の毒」下からは「かわいそう」。

言葉は生き物です。上から目線の言葉が自粛して使用禁止になり、「さん」「かわいそう」などが幅を利かす時代。本音はどうなのか、大人は自信をなくしいくばかりが気になります。

貴殿へと、数年前手紙をもらい、何事かと驚いた自分は、今複雑な気持ちです。近所の13歳の少年に自分は、「君を使うのか」「さんを使うのか」
気持ち次第と感じます。

半世紀の昔、同級生の女性に「◯◯君」と呼ばれると上から目線で、その物言いが、気になった気弱人間です。

下の画像は『燃える椅子』と題した現代アート作品です
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くとうてん [言葉]

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くとうてん
冬に穿ち=
て誰を待つ

句読点の歴史をふと調べてみたくなった。手元に、漢字、平仮名、カタカナ、アルファベットに続く第五の文字として、記号があるという『句読点、記号活用辞典』小学館を開く。著作権表示記号[コピーライト]やアスタリスク*、史跡名勝記号三つ点、ウムラウト¨、ダガー†、等200の記号が並ぶ。その使い方、使用例から、二重線を用いた不思議な絵本を見た。御近所の方が佐藤春夫さんの著作で子供向けに書かれた昭和の初めであろう絵本を開いて驚いた。カタカナが並ぶのは、サイタ サイタ サクラ ガ サイタでお馴染みだが、縦の行の最後に使われる、二重ダーシ、双柱、双罫と呼ばれる、繋ぎ記号が眼についた。

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文字が次の行に繋がることを意味しているようだが、何故わけられてしまったのかが気になる。
アナ=タサマガ  デ=スカ  オ=ハナシヲ  クダサイマ=センカ 
活字が縦何字と決められて作られたから次の行にまたがるのは当然なのだが、何か読み上げていると気持ちがよい。一行で完結しないで次の行にまたがる文章が独特のリズムと、読み手のスピードを抑制し不思議なリズムを生み出す。文字の配列全体の何処を読むかを一頁の全体を見ながら峻別している眼の動きの気配を感じる。詩の様な配列に文字のつなぎ部分と空白部分が何かを訴えているようにも感じる。ある不自由さから訴える素朴な力の何かのように迄も感じてしまう。
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この時代の支那の童話という取り上げ方をした、感覚と知性に何か羨ましいものを感じる。
何か「無地極上」といった趣の絵本である。
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今支那といえば差別用語になるのだろうか
春の日ざしは数千年前もこうであったよと言っているようだ
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くとうてん出番待ちたる春のはな 無音
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ひねもさん椿一輪くとうてん 無音
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冬の海さけびちいさき句読点 むおん
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断捨離孝 [言葉]

近頃近辺を断捨離し始めた。家の中のものは、引っ越ししてきた頃から増え始め収拾がつかない程に溢れ帰って来た。何か求めるときは何かを捨てるという行為を必ず実行していれば、モノの数は増えないはずだがそうはいかない。廻りに空いたスペースがあれば其所に押し込みその存在を、忘れてしまう。
断捨離し始め、ものの、空間と、心の空間が空っぽになるのは、清々しいことだと思えてきた。然しなかなかモノは減らない。今いるかいらないかの判断でいけば、ものは劇的に少なくなるのだろう。いずれいる様になりそう、いつか役に立つ、思い出を断ち切れない、未練がものを自分に縛り付ける。本も何時か古いが故に役に立つ、役に立つとは何か。情報か、存在か、交換価値か、無駄はある程度必要なのだ。
そのある程度が大幅に度を越すと、ゴミ屋敷にまで繋がるのか。
『断捨離』の対語を思い浮かべてみた。『繫拾接』だろうか。人が持つ物欲や、ものぐさ、怠惰、惜別の情が断捨離を阻むのか。
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ある時、「貴方にとって大事なものを十点挙げて教えて下さい」と言われたことがある。順位づけなど難しいが、家族や、気持ちが優先し、モノに至るには遠いのに、モノの十個がすぐさまは選べない。
人は多くのものに囲まれて生きているが、それぞれが大事で愛おしいものに思えてくる。順位づけは毎日変わっていく。それでも大事なもの三つを選べと言われたら。
断捨離という言葉から、聖人の様なイメージも浮かぶ。極端な禁欲生活はしたくないが何かピュアーなものが欲しい。
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複雑な社会を、シンプルに見るという行為が今では少ない様に思う。ニュースも複雑に解説し、何が重要か見えて来ない。『秘密法・説明不足・反省・首相発言』とあるが、その首相は、事前にもっと丁寧に時間をとって説明すべきだった。と発言した。説明はこれからも丁寧に、かつ核心部を話す機会は今後いくらでもあるではないか。何故早急に成立を急いだのか、それが秘密ですとは怖い世界だ。
情報社会に、それを制御する権力者達とは怖い存在だが、人為的ミスよりも機械が処理する範疇に多くが今後生じる気配がする。数値や経済が先行する社会の怖さを感じる。
ニュースの露出度の中で、東京都知事の猪瀬氏が、秘密法成立の目くらましのニュースとして使われたという話も何故か興味を惹く。大きなニュースの裏側に深い大事なニュースが潜むのは注意深く追わなければ行けないことなのだろう。情報の断捨離を自分の中でも行わなければ。
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紅葉の葉も紅葉の前に、植物のメカニズムとしての構造で、葉を大地に断捨離するということをテレビのニュースで知った。人にもこんなメカニズムは細胞が持っている話なのだろう。
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シクラメン祭りという催しをやっていた。
一鉢を求めたら一鉢は処分なので、見るだけにした。
所有するとは何なのか。
国家の所有とは、レンタルでは駄目なのか。レンタルでもそれを所有する国家や、企業が存在するか。
シクラメン国などは平和でいいのだが。
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冬の日ざしに木々の影が存在感を強く出していた。
影の中に日ざしがあるとネガの様になるが、
木漏れ日よりも印象的に見えた光景
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国家の壁つくる人こわす人  SILENT
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鐘の音も秘密となりて音亡き町
    SILENT
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ありがたき甘藷の色と重みかな
    SILENT

不立文字 [言葉]

不立文字(ふりゅうもんじ)とは「文字を立てない」つまり、肝心なことは言葉や文字では伝わらない、、文字にしても伝えることができないということです。禅の開祖、達磨(だるま)の著とされている『血脈論(けちみゃくろん)』に「以心伝心、不立文字」とあります。今日は文字無しで行こうと思いましたが、文字がかってに眼にはいってきます。以下の画像は総て携帯で撮影。アイホンだと画素数多く綺麗ですが、これは携帯から。
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燕に向かって一言。来年もどうぞよろしく。気が早いですから。

菊の季節もそろそろ終わりです
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手書きだからこそアピール
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筆が走っています
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黄葉はまわりを明るく照らし出します
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先日の箱根の大食堂をスケッチ風に展開
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今年もあと一ヶ月となりました。
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冬の海深き心の底にあり SILENT

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冬の日ざしは黄泉にも届く  SILENT

拡大解釈 [言葉]

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法律の解釈の仕方で、類推解釈と拡大解釈の違いということがネットで書かれていた。

「類推解釈」は、「言葉」に含まれないが重要な点で似ている物も含まれると解釈する事で、「車馬通行禁止」の場合に、「牛」も通行不可と解釈する事。(対義語は、「反対解釈」で、言葉に含まれない「牛」は禁止されていないと解釈する。)

「拡張解釈」(「拡大解釈」という言い方は、あまり好まれません。)は、「言葉の範囲内」で「法文を文理上の意味より通常より広く」拡張して解釈する事で、「子」に「嫡出でない子」や「養子」を含ませる場合を言います。(対義語は、「縮小解釈」で、「子」を「嫡出子に限る」と解釈する。)
なお、学者によっては、「拡張解釈」の定義において「言葉の範囲内」に捕らわれない人もあり、その場合、「言葉」に含まれない場合の「拡張解釈」「類推解釈」は、ほぼ同じ意味になります。

拡大解釈は一般に、言葉や文章の意味を広げて解釈すること。
自分の都合に合わせた解釈(曲解)の仕方を、揶揄してこう呼ぶことも多い。

解釈と説明はどう違うのだろう。解釈は自分が理解する事が主体で、説明は相手が納得できるためのサポートの様な気がする。正しい解答は調べていない。

自分の曲解で、望遠レンズの世界の画像は拡大解釈に、強引に結びつけた。
世界が拡大されると見えないものが見えてくる反面、まわりが見えなくなるという当たり前の事に気がついた。レンズを右目で覗き、左目は望遠でない世界の全体を見ながら撮影している。
歩き携帯族の画面の一部に、歩く前方の画像がカメラで展開したら面白そう。歩き携帯はスマートに見えずモラルが低いと感じているのだが。
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富士の頭だけを拡大解釈しても美しい稜線が、この山の命だという事を知るだけだった。
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波を拡大解釈しても、海原の大きさはわからない。
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海辺で釣り糸を垂れ、この国の今後を拡大解釈してみようとはおもわない。
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水を拡大解釈すると宇宙の姿の存在が見えてくる不思議
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如是我聞 [言葉]

釈迦が弟子の阿難に、経典の冒頭に冠させた言葉という。『このように私は聞いた』如是我聞と。
釈迦の教えを信じ、それを固く保つ意味を含む、という。
「このように見た」でなく、「このように聞いた」なのだろうか。
教えは、聞く事を記録する事はできたが、見た事を記録する事ができない時代だったからだろうか。
聴く事と、観る事の違いには深いものがありそうだ。
絵から何かを聴き、音楽から何かが見えてくるという関係はよくわかる。
如是我聞とは、誰が語り、誰が聴いたのかを意味するのだろう。教えを語るのは釈迦で、阿難が聴いたという事か。仏の教えを釈迦が聴いたという事か。教えの総てと、聞いた事の総ては一致するのか。
其所に漏れているものこそこそが、大切なものという解釈もあるのではと、ふと思った。
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昔のラムネ菓子の木型だという。同じものが二つ合わさりその間にラムネの素を押し込み型を外して、
蛸の様なかたちのラムネ菓子が生まれるのだろう。色とりどりのセロファン紙で包んだのだろうか。
如是我聞、鍵盤のような型から生まれる言葉は、雌型と雄型の関係を連想した。
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人の親指大の大きさの、御仏の脚先。いかなる事によって足先だけの残欠が我が手元にやってきたのだろうか。その変遷はちいさな指先だけが知っている。
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ブロンズでできた水牛の見つめる先と、聞くものは。
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梅雨空の重しを受けし水の倉
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ズッキーニとあいほんの夏最中
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電線を雲の炎が夏へゆく
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行水の花の背中の色気かな

隔靴掻痒 [言葉]

瀉眞を撮って、その時の想いや、なんで撮ったのか等を後から言葉にしようとすると見つからない。
適切な言葉が浮かばないときの、いらだちや、情けなさや、落ち込みは、何ともしようがない時がある。
言葉は必要ないのかもしれない。言葉は足りない方がいいのかもしれない。
言葉を尽くして語ろうとする事は難しい。何もいわなくて分かるという事があるのだろうか。
態度や気配が語っているというが、全てを言葉やデータで示す世界は疲れが来る気がする。
それにしても隔靴掻痒、核心に近づく言葉がない。
先日の山の家の庭も、実際の光景と、写真に撮られた光景は随分の違いがある。
一望千里も、見通しが効かない山中で使う言葉ではない。海は果てしなく広がる光景のようだが、其の先は瀧となって裏側に落ちている事を想像した時期があった。山はその彼方も山というイメージが強く、想像上の彼方の山の連なりを思って、一望千里を連想した。高見から見おろした広がる光景ではない。かなりの屁理屈。隔靴掻痒言葉が見つからない。
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1971 [言葉]

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1971年東京の映画館で「パリは霧に濡れて」と言う作品を見た。有楽町のスバル座あたりだろうか。パリの裏町や運河が上手に使われた映画であった。子供が輪を転がす場面が鮮やかに甦って来る。フェイダナウエイのあの横顔が好きだった。「俺たちに明日はない」のボニーとクライド。冒頭場面のフェイのあの階段を駆け下りるシーンが好きだった。世界大戦で各国を漂流する客船の中に登場するフェイのあのけだるさと優雅さも好きだった。
霧に濡れて、、、では今も耳に残る電話番号が記憶に残る。
子供が誘拐されて、その重要な手懸りになる電話番号が、フェイの頭の中で甦り、呟かれる。何度も呟かれる番号は何か歌のようにも聴こえた。
『989−1213。989-1213。989−1213。』nine,eight,nine,one,two,one,three,,,
だったとおもう。
淀川長治さんが最初に視た映画のシーンを覚えていて、また再見する機会があった時に、非常に怖い思いで映画を見たと書いていた。覚えていたシーンは間違いなく、淀川さんの記憶と一致していたという。
アメリカ映画の『SMOKE』を久しぶりにみたらラストシーンで登場するカメラが
CANONだった。自分の記憶ではNIKONだったのに、何故か映画のイメージ迄変わってしまった。記憶とは不思議なものだ。
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ネットで世界の言葉分布なる頁のサイトがあった。アフリカのある地域を視ていて驚いた。部族だけで通用する言葉なのか、無数の言語分布がある。何か言葉が生きて動く世界が見えて来る。
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アップにして
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紛争が多い世界は言語も、宗教も込み入っているのだろう。
70億の人間の言葉。
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日本という国にも言語で通じない世界は今はないのだろうが
標準語って何か、不思議になった。多様性とスタンダード。
世界は広い。

ひかりの卵 [言葉]

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ひかりのたまご
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どこかで産みおとされた ひかりの卵たち
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夏はそこまで来ています
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きらきらときらきらきらと夏立ちぬ
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ひ か り の た ま ご 夏 き た る
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ひかりのあめ
ひかるうみ
ひかるなつ
ひかる
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麦わら帽子の夏
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詩に何が出来るのか [言葉]

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先日の早朝 石巻出身の辺見庸さんの番組があった。四月三十日再放送とNHKにあったのでご興味のある方はご覧下さい。咄嗟にメモしたその時の詩に深いものを感じた。
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死者にことばをあてがえ

私の死者ひとりびとりの肺に
ことなるそれだけの歌をあてがえ
死者のくちびるひとつひとつに
他と異なる
それだけしかないことばを吸わせよ
類化しない統べない
かれやかのじょのことばを
百年かけて
海とその影から救え

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砂いっぱいの死者に
どうかことばをあてがえ
水いっぱいの死者は
それまでどうか眠りに落ちるな
石いっぱいの死者は
それまでどうか語れ

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夜ふけの浜辺にあおむいて
私の死者よ
どうかひとりで歌え
浜菊はまだ咲くな
あぜとうなはまだ
いたむな

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私の死者ひとりびとりの肺に
ことなるそれだけの
ふさわしいことばが
あてがわれるまで

辺見庸

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呪文のようにゆっくり語られる その詩に 深いものがありました
ことばにならないものが 聴こえました
詩の力を感じました 大きな静かな力を感じました
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