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口琴 [旅]

8月21日午後、臺湾の南西側七股潟海岸を車で目指す。国道から西へ一直線に海へ向かう道路の電柱の遠近法がわかるみごとな光景だった。
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道路の右手は一面のサトウキビ畑、畑がやがて水面の光る生け簀に変わる。ウナギ、蛙、蟹や牡蠣や他の貝類、魚たち豊富な生き物が生きている気配が濃厚。白鷺達が蛙か小魚を狙って群れをなし飛んでいる。空から昨日見えた生け簀のある光景はこの辺りだったのだろうか。光る生け簀が連続して続く。水の撹拌機が白い小山を作ってぽつりぽつりと仕事をしている。日中のせいか人影は見かけない。日本に帰国してから妙に此の国の事が気になって多くの本を読んだ。台湾海峡一九四九、台湾人生、語り継ぐ戦争15人の証言(霧社事件の現場を探る/モーナ・ルダオ)他。
今、ブログの文を打ち込むサイドで、台湾の口琴の調べを聞いている。坂本龍馬も口琴を楽しんだという。哀しく明るい調べが口琴と民族唄から心に染みてきます。くぐもって弾けるような弦の響きがこの海岸の光景にも似合っています。海辺で話される言葉は北京語を話す人達には理解出来ない言葉なのかと思いました。台湾語もいくつか方言もあるようで山岳地帯の少数民族も十を超える数と聞きました。
R0130320.jpg海辺に近い道路サイドに蛙を食べませんかと黄色い旗の群れ、海産物が食べれる様な店が数軒、犬の姿も見かけるけど人影は無し。
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海辺の人の気配を感じて、青が魅力的だった人。
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太陽に反射するタンクの姿に引き込まれて、この雑然さが、、、
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牡蠣殻の竹籠
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何故か映画の「泥の河」の光景を思いだしてしまった。西日に光る道路と陽炎が見えた気がして。
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魚と蟹の看板も
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煉瓦の小屋は何時頃の建築なのかと気になって
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中学生の群れがバスでやって来て焼き牡蠣を食べていた。
夏牡蠣はやはり食べる気がしない。夏に食べる牡蠣の日本でもある事は知っているが。R指定があったほうがいいのだ。
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干潟を観光する船なのだろう。
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焼き牡蠣は100元凡そ300円ちょっとの値なのだが。観光地価格の気配がした。
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干潟を走ると、道路建設の姿が、バイパスか高速か、開発の無かった干潟にも自然破壊の足音が見えた。
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道路を走行するバイクの人の口元はマスクが必要な国、排気ガスはこの干潟にもやってくるのだろう。
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台南への道、工業地区が遠望できた。IT産業も盛んな此の国の勢いが忘れられた様な干潟と対照的な光景に思えた。
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干潟を出て台南の街に向かいます。いつか干潟も埋め立てられるときが来るのかとふと思いながら。太陽を背にして走ります。
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嘉義 [旅]

8月21日臺湾高雄にて、快晴。此の日は高雄より高速道路で嘉義方面を経て台南關子嶺溫泉に向かう。この温泉は泥湯が有名で世界でも珍しい温泉で、国内や海外からの観光客も多いそうだ。朝は現地の朝刊が、政治経済系の新聞と芸能系の新聞に別れ並んでいる。
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レンタカーで高雄から嘉義へ向かう。途中有名な蓮池潭の畔の市場に立寄る。豊富な果物が山と積まれ値段も安い、大きなマンゴーと龍眼と呼ばれるフルーツを買った。
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臺湾の犬達は自由だ、黒光りするしなやかな身体と首輪もリードもつけない状態で生きている。狂犬病の恐怖は無いのか。この時は考えなかった。自由である事が羨ましくこの時は思った。
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あちこちで見かけるトラックの姿が逞しく、近代的な乗用車に比べレトロで力強さを感じる。野生の匂いが強烈にトラック達から発する気配は何なのだろう。労働者の汗の匂いなのか日本で感じない強烈なエネルギーを感じる。巨大で圧倒的で非近代的な匂い。国を支えるエネルギーなのだろうが何か、見ていて胸が締め付けられる思いがするのは何故か。
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高雄を抜けて北方の嘉義市へ向かう。嘉義は映画「KANO」で嘉義農林高校の甲子園で準優勝した1930年代の臺湾を描いた作品で、日本でも2014年の今年公開されたそうだ。同じ監督が「海角七號」「セダック・バレ」と興味深い作品を作っているのが気になる。
車外に広がる臺湾の南の光景。
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映画「海角七號」でも冒頭現在の臺湾の何処にでもあるセブンイレブンの店舗が写るシーンから始まっていた。
高速道路を降りてセブンイレブンでトイレ休憩をして、關子嶺溫泉に向かう。黒猫の宅急便のトラックもよく見かける光景だった。
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温泉までの道は鳥を壷焼きにする料理が有名の用で眼につく。
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予約した温泉会館についた。個室を借りたので水着着用でなくゆったりと自由に入れる泥湯だった。ゴージャスなベットに大理石の床、臺湾流のおもてなしのしつらえなのだろうか。
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日本お正月飾りの様な吉祥の飾り、南国の輝きが暗さの中に映えていた。
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ゆったり二時間マンゴーのカットを食べながら泥湯を堪能した。泥湯はさらっとして底に沈殿している感じだった。肌には優しい感触の湯あたりでした。山を下り海辺の街台南へ向かう。温泉は海抜結構高いがどのくらいあったのだろうか。途中展望台から見おろす光景は圧巻でした。
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高雄 [旅]

8月20日の夕方、臺湾高雄の国際空港についてから高雄駅近くのホテルにチェックインして、オートバイで港方面に向かって走る。バイクの運転は出来ない私はドライバーの後ろから市内の見物。川沿いに日本時代の高雄市政府の建物だったが今は、高雄歴史博物館となっているそうだ。大きな川は愛河と呼ばれ、夜には多くのカップルが散策するという。町の中はバイクの群れがミズスマシのように行き交う。マスクをした顔が多い。
交差点ではバイクが進路を変える為のコーナーが路上に白線で囲まれかかれている。バイクの群れはこの規則に従う。歩道にもいきなりバイクが現われ、市場にもバイクは歩行者の群れと同じに流れて行く。ホテルにサイクリング車のレンタルもあったがバイクが怖くて乗れたものではない。
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高雄の南西部にある見晴し台から、夕陽で有名な西子灣や、高雄市内を遠望する。ガジュマルの木が印象的な場所だが、市内にも多くの街路樹としてのガジュマルを見つけた。ハイビスカスも当然似合う光景だ。
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R0128193.jpgここにもLOVEの文字が、高雄はカオシュンと呼び、愛の街でもあるのだろうか、愛河、真愛埠頭、美麗島と呼ばれる世界でも美しい地下鉄の駅もある。R0128187.jpg古い煉瓦作りの建物も存在する港方面の路上に、木の桶を積み上げた桶屋があった。昔日本でも使っていた檜の風呂桶の様なものも売っていた。薄暗い店の奥に白いランニング姿の老職人の座っているのがバイクの上から見えた。ネットでは高雄には二軒だけ桶屋が営業しているという。蒸し蒸籠の様なものは桶屋の仕事なのだろうか。否酒樽や木桶がメインなのだろうが。
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英国領事館があった港付近は観光客で溢れていた。港をめぐる船の乗り場や、1865年に建てられた英国領事館を施設として解放しているようで、当時の姿が蝋人形の展示で表わされているようだ。芝生の上には古い列車の展示や、港に貨物船が停泊する姿が望める。
寿山という地域ではガジュマルの上に多くのサルの群れがあった。昔サル達の縄張りだった場所に都市の発展と共に人間が入り込んでいるのだろうかと思った。

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そうそうこの町に来た理由に、御近所の98歳になられる老人の方が高雄からフィリピンまで爆撃機で飛んだという話に興味があったのだ。その方がフィリピンまで飛んだ機体は、俗称万年筆と呼ばれる機体だったという。
太平洋戦争または大東亜戦争が勝ち戦の頃の話で、その方は20代前半頃の話だという。フィリッピンではマッカーサー将軍率いる米軍がいたおすで。臺湾に来て、一生日本語しか話さなかった老人が居られたという話も聞いた。日本語しか話せなかった事情も当時はあるのだろうか。98歳の航空機関士だったかたは、高雄の地で「兵隊さんお金はいらないから生きて帰ってきて」と言ってくれたというピー屋の女性がいた話を涙ぐんでされた。彼は高雄の行ったら彼女の孫が街の何処かで暮しているだろうねと言われ、自分も元気なら高雄まで行きたいのにと言われた。
想像するのに、彼女は現地の人なのか、事情で高雄まで流れ着いた人生の人なのか、少数民族の娘だったかも知れない。人は行き交う中で見知らぬ積み重ねので会いを繰り返すのかと思いながら今回の旅をしました。列車の中ですれ違った若い娘さん、市場で元気にマンゴーの実を売る娘さん、彼女達の祖母が70年以上前の日本の兵隊に、一生残る言葉をかけた人の孫であっても何ら不思議ではない事を胸に刻みながらの不思議な旅でした。
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夕方観光客のいかない地元の店で高雄最初の夕食を食べる事で出かけました。街の夜空は深い臺湾BLUEです。
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台北に比べ、料理の味付けは「甘く酸っぱい」傾向と本では読みました。
始めての現地の味です。物陰から音も無く顕われるオートバイの姿を避けながら歩いて店に向かいます。古く崩れそうな光景が日本に限らず好きです。
R0129804.jpgこんな光景をスナップしているとバイクに轢かれるよと同行者に言われながら。暫くたったら続きをアップいたします。今日はこの辺で。
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鎌倉裡道 [旅]

鎌倉に出かけると裡道と、小町通は必ず通る。
御成小学校側の御成通りも好きなのだが、江の電側には最近はあまり行かない。
裡道とは裏道、裏通りのことだ。裏通りは路地を入ると平行して、賑やかな通りの雑踏がない世界だ。
住宅街に小さな店を営む家も多い。観光の町は裏通りも表になってしまうのだろうか。
土日には裏迄人が溢れている。
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路地裏にひっそりと咲く花も好きだ。
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ちいさな展示場の気配
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足音は冬の日ざしにかき消され
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黒と赤が似合う町だ
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海外からの観光客も多いのだろう
彼の国の人はいるのか
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食べることは美しくのがよい
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日向には笑顔が似合う
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ある日の鎌倉冬の旅 SILENT

軍港都市 [旅]

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久しぶりに故郷の横須賀の街を歩いた。総てが旅の中のシーンの様に遠い世界だった。旅の町でみじかに感じることも多いが、それよりも遠い世界に故郷はなっていた。心の中の問題なのだろうか。
海だけが変わらない色をしていた。冬の海軍艦の影星とあり SILENT
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大きなガントリークレーンのあった空がぽっかりと何も無い灰色の空を見せていた。
EM倶楽部というなの建物にそっくりのシルエットが聳えていた。
この街を上空からみたら追撃されるのだろうか。
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ボルサリーノに憧れた時代もあった。帽子の伯父さんが跳ねた。
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駅は近い。一番線は御召し列車専用で使われていない横須賀駅。港のがここからはもっと近い。
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ボルサリーノが密談をしていた、「このホームのこの柱のレールは俺の爺さんがいた会社がつくったんだ」と。出航は明日にも決まるとも。
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ドブ板通りは静かすぎる通りになって、鼠一匹いなかった。
コーラのシズルが似合う通りだったのに。
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坂道から、今も海が見えるのだろうかと、平坂にも行ってみた。冬の日
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皇女和宮 [旅]

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箱根塔ノ沢には現在七軒程の宿があるという。箱根駅伝で山登りに入ってまもなくの、早川の急流が西に大きく曲がり、東海道を横切る橋の袂に、環翠楼という古い旅館が或る。この宿に伊藤博文の勧めで、一人の女性が静養の為、東京から訪れ、この宿で静養中に亡くなったという。彼女の名は、皇女和宮。
かなり昔のテレビ番組で、大竹しのぶさんが演じた、「フキ」という女性が皇女和宮の替え玉として江戸に向かう途中で発狂して亡くなったシーンを思いだした。十代で京の都から、江戸の将軍に嫁入りした女性の御霊を祀る寺が、この箱根塔ノ沢の近くにあるという。寺の名は阿弥陀寺。
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環翠楼を見おろす東の高台に山中深く阿弥陀寺を訪ねた。
山路は曲がりくねるつづら折りの上り道、途中苔むした石段にかわる。紅い衣の女人が杉林の彼方を昇っていく姿があった。
振り返ると杉林の間から紅葉が輝いて見える。
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石段を昇りきると、石仏達の居並ぶ光景の先に、阿弥陀寺の姿が望めた。優美な屋根のかたちを見上げると葵の紋がきらめいている。藁葺きの豪農の家に銅拭きの屋根を貼ったような姿だ。

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本堂には不思議な、数珠を連ねた大きな木の歯車の滑車が下がっている。数珠の環を手にとり繰り出す様に数珠を動かすと、頭上の滑車が軋みながら回転し、滑車の横につけられた共鳴板の箱から唸りを上げるような響きが奏でられる。百万遍の功徳があるような仕掛けだそうで、装置の名を聴いたが忘れてしまった。神奈川縣山北で数珠を投げ打つ様に回す、神事を観たが、何か古代に引き込まれそうな同様の音の世界だった。チベットやインドでも同様の世界が多く見かけられそうに感じた。念珠車と後からネットで知った。およそ二百年も前から存在するとか。
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阿弥陀寺に祀られた皇女和宮をお詣りし、本堂で御住職の琵琶を拝聴するはずが、御住職不在で奥様の琵琶を奏でる音と、和宮様に関するお話を聴いて山を下りた。
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阿弥陀寺を訪ねる前には、大平台温泉で湯葉を買った。店の名は角山(かどやま)汲み上げ湯葉と、麩饅頭、近くに小田原城の佐保姫ゆかりの、化粧水「姫水」が勢い好く沸き出す泉があった。
湯葉といえば、京都も想い浮かべる。湯葉を食したのは和宮であり、佐保姫でありと妄想は膨らむことしばし。
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阿弥陀寺詣での前日は、環翠楼の前に、東海道を挟んで立つ一の湯本館に泊まった。この宿も三百八十年の歴史があるという。京の和宮からすればほんの歴史の浅いことなのだろうが。宿の前を早川の急流が今も歴史を押し流す様に流れている。
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一の湯本館の大食堂は四階に或る、木造の軋む急な階段の先に大きな展開する光景は圧巻だ。
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階段に見かけた三日月の商標は鏡に浮かび、懐かしい。
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前日は脚を伸ばして旧箱根離宮迄、箱根の秋を楽しんだ。明治の宮様達の離宮であったのも、皇女和宮様の足跡を辿ったのも何かの縁だったのだろうか。
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箱根関所となりの旧離宮から眺める光景はさすが一級品。
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箱根恩賜公園の道ふたつ。恩賜公園は旧箱根離宮があった場所。
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芦ノ湖周辺で
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海千山千 [旅]

海千山千樓と言われた事も或る、戦後の宰相が住んでいた、旧吉田茂邸の庭園が最近公開された。母屋は数年前火災で全焼し、一部を再建中との事。かっての主に仕えた竹内さんという執事の方に聞いた話。
主の吉田茂氏の外出は、突然出かけると言われる事が多かったという。車で東海道の国道一号線から、東の東京方面へ向かうか、西の箱根方面へ向かうかは、主の気持ちを速めに忖度する事が執事の役目だったという。門を出て徐に方面を告げられることが度々だったようだ。今日は天気がいいので、箱根へ向かおう。吉田さん生存中はなかった西湘バイパスで、解放された旧吉田邸の松林の庭を車窓に西へ向かう。
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二宮か国府津あたりで釣りをする人々が見えた。台風一過から一週間程過ぎて静かな海。北風にかわると海は穏やかにおさまっているという話を聞いた。確かに山が北側にあるのでこの辺り南風や、東風で大きな波が起きるのだろうか。
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青の色彩から、若い緑迄諧調が美しい海。春先の海のようだが、シャープな光線は秋のものか。
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箱根の山々が西湘バイパスの彼方に見えてくる。
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箱根の奥座敷、仙石原は濃厚な秋の気配。銀の芒の原が、モノトーンの風を運んでくる。
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宿で風呂あがりに飲むビールの味は格別
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陽はのぼり、陽はまた沈む、山の端に雲が浮かぶ

おやすみと、富士も頭を沈めていく
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黄昏時「たそがれどき」は、誰ぞ彼はという言葉から生まれたとか 
彼は誰時「かわたれどき」という言葉も美しくいとおしい時
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翌朝は、深い青の色調から始まる
静寂は美徳なり 沈黙は金なり
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おおらかに顔を出して、挨拶されてしまった富士の山 湖尻峠あたりか
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性空上人 [旅]

先日の関西方面の旅で姫路の駅に降りた。姫路郊外に書写山という場所があり、円教寺という古刹があるとの事で出かけた。山の麓のロープウエイの乗り場で一枚のポスターを見た。何処かで見た様なと思ったのだが、家に帰ってくる迄、そのポスターの謎が解けなかった。
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数日後家に帰り、ふとしたきっかけで、写真家十文字美信さんのブログを見て思いだした。そうあの性空上人の像を撮影したのは十文字さんだったと気がついた。
謎が解けた。それにしてもこの寺だったとは後日に知って後の祭り。以下十文字さんのブログから
http://jumonjibishin.com/ja/2013/03/31/性空上人の頭部/
千年の時を隔て、そこにある気配が凄まじい。静かな静かな叫びの様な佇まいのお姿。
何気に尋ねた寺が、この御仏の寺だったとは。姫路の地は、平清盛の時代、神戸福原も栄え、西行法師もいた事を思い出す。
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はるかに瀬戸内や、淡路島、神戸方面も遠望出来るロープウエイからの景色。すれ違った下りのロープウエイは乗客ゼロ。眼下には山陽高速中央道も見えている。
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西の叡山と呼ばれたという千年の歴史を刻む境内は広大。
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映画ラストサムライのロケ地としても有名になったという。
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確かに広い、古い、懐かしい、空気。
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苔や豆蔦、黴達の世界。
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悠久の道
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日が恋しくなる裸電球ひとつ
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夜が近づくので下山する
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木漏れ日の道
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翌日ロープウエイ終点附近のレストランで納涼ビアーガーデンが開催され、俗と聖の接点がもっと近づいたようだ。前日の山は無人の世界。厳かに畏まりながら境内を廻った。
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天空の修行の僧の夏を見おろし  SILENT

1889 [旅]

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明治22年11月21日午後2時36分新橋駅発の汽車で、正岡子規(22歳)は大磯に向かった。「此日や天朗に氣清く紅葉野に満ちて晒錦の如し。夕陽傾く頃大磯につきぬ」と『四日大尽草稿』にある。此の日より大磯に三泊し、宿泊先の松林館で、高崎出身の主人にお大尽並みの待遇を受けている。その滞在中に、「高麗神社の横手に出でたり、社前に『高麗神社』とゑれる(彫られた)石は大きな凹み小さな凹み相雑りて其凹みの形は真圓く不思議なる石だ』と描かれる。それから123年後の今も「高麗神社」の石碑はあるのだが、麗の字がおかしい。明らかに手を加えられている。子規が訪れてから、8年後の明治30年、高麗神社は高来神社と改名された為であろう。高麗の麗から、高来の来へと文字は変えられた。その訳は何なのだろう。高麗山は江戸時代は家康の権現信仰の聖地であった。古くは伊豆山権現、箱根權現、高麗山権現の三社権現を発生させた元社でもあったという。高麗からの渡来人達によって開かれた土地でもあるという。渡来人は、百済の人々、高麗の人々と同じ半島でも国が違う人達が渡来しているそうだ。
子規の記述の表面に大小の凹めんがある石とは、海中にあって既成する石や岩の表面だ。関東大震災ではここらの海岸が人の身長ほどの高さ隆起したという。海中にあった岩や石が多く露出したという。子規が見た岩はその大地震の前のものであり、附近の海岸から運ばれたものであろう。ならばこの石も大地震の時の海底から海上に姿をあらわした時に運ばれたものであろうか。興味が尽きない。アオバトが訪れる海岸線の岩場は皆此の岩のような形状で、誰かがアオバトのコップと呼んでいた。

緑鳩の洋盃はのこり秋の海   SILENT

あおばとのこっぷはのこりあきのうみ

今アオバト達は秋になり、渡り鳥となって西に進み、京都の御所の中の公園で、団栗の実をついばんで冬越しをするという。京都御所のアオバトがどこからくるのかは判らないが、北海道小樽で観察されるアオバトは越冬はどこでするのであろうか。津軽海峡を超え関西方面迄飛来するのだろうか。11月から翌年4月の初め迄アオバトたちはこの湘南大磯の海岸からも姿を隠す。12月のある朝町の山手でアオバトの聲を聞いたことがある。もしかして小樽からやってきた越冬の鳩だったのだろうか。それとも暖冬で西に行かず居残ったアオバトの鳴き声だったのだろうか。おそらく後者であるのだろうが。アオバトの名称は鳴き声から来たという話が有力です。

低音のあおーあおーと秋の声 SILENT

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正岡子規が書いた、四日大尽には大磯を訪れた時の様子がよく書かれている。その当時の彼が行動した道を大磯駅から辿ってみたいと前から思っていた。駅から松林館という海岸の宿迄、どのような道を辿ったのか、当時あった道を再現しながら、歩くのは楽しいものになりそうだ。凡そ百年の間に道はかなり変わっている。当時あった建物や、記録された場所や店から子規が来た日に逢わせ歩いてみたいと思っている。人力車を子規はこの町で使ったのだろうか。風呂敷包みに杖と菅笠を持って写した当時の子規の姿を思い出した。東京から大船辺り迄、徒歩旅行をした彼は、明治25年の大磯再訪では箱根路を駕篭に乗って超えて三島迄行き、修善寺迄馬車に乗ったという記載もある。何か時間の流れが優雅で、埃っぽい光景だろうが空は何処迄も高かったような思いが浮かぶ。
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チリ紙や紙箱のまわりを包む秋の日射しが温かな色合いだ。
白秋のちろちろとした微火がみえて来る。
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来年は巳年、今年は辰年だったが、障子の龍の補強紙も色褪せてきている。
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障子は季語が冬だったような。
日射しを受け柔らかな光を、室内に広げる障子の力は好きだ。
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卵のコレクションは、石、硝子、陶磁器、木製様々にあるが、これは南米のヘタマイトだっただろうか。黒塗りの漆器によく似あう。
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1927 [旅]

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1927年7月(昭和2年)島崎藤村56歳と次男鶏二20歳は、山陰を旅したと、村上文昭著「島崎藤村『山陰土産』の旅」武蔵野書房刊にある。次男は洋画家を目指し、藤村自身も若き頃、画家になりたいと思っていたようだ。本の中で岩美の駅で降り、岩井温泉と浦富海岸について書いた記述がある。岩井温泉には明石家という宿に泊まっている。其の中の蚊帳の中で親子が寝るシーンが胸暖まる。その後
次男は昭和19年10月ボルネオ付近で戦死、37歳だった。父の藤村は昭和18年8月大磯の自宅で72歳で亡くなっている。
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十二日間の山陰の旅は大阪の新聞社からの依頼で、『山陰土産』と題され37回にわたり連載されたという。鶏二のスケッチ16枚が父の文章を飾ったという。
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山陰中央新報の記事で、この親子の旅が島崎藤村が晩年、湘南の地大磯の海辺に住むきっかけになったのかもしれないとある。
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2007年浦富の海岸を私が訪れたときの画像達
中には昔撮影された、古い写真をスナップしたものも含まれています
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