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06月20日 [時]

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毎年春と秋に一輪だけ花をつけてくれる薔薇、プリンセスミチコです。

今日は人生いろいろと考えています。いろんな出会いや、季節の巡り会いに感謝しながら。
数ヶ月から半年間、当ブログの更新をすることができなくなりました。
また再開できることを楽しみにと、ご挨拶のみです。  2017.06.20.SILENT

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アオバトが駅前の空や、街の上空を行き交っています、空からの眺めいいでしょうね。夏の海

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06月04日 [時]

元働いていた会社の同窓会があって東京へ出かけた。
集合時間まで間があるので、会社から徒歩5分で行けた蕎麦の、まつやに出かけた。開店時間の前には行列ができていた。神田淡路町交差点近くの、太平洋戦争の下町の火災にも奇跡的に焼け残った一角の中にまつやはある。神田青果市場が近くにあり市場関係者も昔は多く出入りした店と聴いたことがある。
近くにはアンコウ鍋の伊勢源、鳥のぼたん、甘味どころ竹むら、藪蕎麦本店、喫茶ショパン、西洋料理松栄亭などの老舗がひしめく。

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まつやの店内には土曜日の開店時間前に並んだ甲斐があり直ぐに入れた。
天井を見上げると大きな格子状の灯りと、店のまつやの松の姿が窓の装飾にある。土間と奥の調理場からオバさん連中の店員が慌ただしく注文の品を運ぶ。
店主が奥に座り、会計処理をしていたのだがこの日は店員が会計の処理は此処の客にしていた。
昔から店員の方は白か紺のハイソックスを履いている。

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注文は大盛りにした。メニューをちらりと見ると、かき揚天丼の名があった。昼に蕎麦では物足りなかった若い頃、かき揚天丼をいつも頼んだ。蕎麦は昔と同じでうまい。

初めてこの店に来たのは、約50年の昔だと気づいて驚いた。当たり前にそんな時間が過ぎていた。
初めてこの店を訪れたのは、池波正太郎さんの本のページからだったか。十代の終わりの歳の頃、地味なものが好きだった。特にこの一角の寂れた大人の街の印象が好きだった。
まつやの夜では、池波志乃とご亭主の粋な二人連れもあった。
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藪蕎麦本店は数年前に火災のため再建されたが、昔から黒塗りの車が門前に停車して好きにはなれない店だった。伊勢源はアンコウ鍋だが、夏でも営業していて二階の座敷で独占して夏の夜の晩餐を食べたのは思い出に残っている。甘味の竹むらは、二階で昔は句会も開かれていたという。
近くには万世橋の駅の跡に交通博物館があり何かレトロで時間が止まっていた。付近には羅紗ありますと看板の出た生地屋のビルも何軒かあった。

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竹むらの店先を見て、揚げ饅頭を思い出した。この店内も昔ながらの叩きの土間だ。

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最近であろうか十年は経つのか寄席の幟があった。奥には藪蕎麦の看板が見える。
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自分が十代にタイムスリップしたかのように、画像はこの日に撮り、セピアカラーに変換した。
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中央線の列車が旧万世橋の煉瓦のアーチの上を走行していく。
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煉瓦塀の向こうへ歩いていく、遠い昔の自分を見た。
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煉瓦塀の向こうに歩いていく、今の自分に姿は変わった。
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昌平橋から秋葉原方面へと脚を向ける。
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川面の姿は、半世紀前も一緒。波紋が描くのは高層ビルなのだが。
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煉瓦と高層ビルは何か馴染んでいた。
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秋葉原から神田まで山手線に乗る。途中秋葉原駅前に健在のラジオセンターにも脚を運んだ。
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会社の同窓会は多くの人たちが集まった老若男女、数十年ぶりに会えた人もいる。女性の顔は分からない方が多い。現役の人もかなりいる。縁あって数年から数十年を共に働いた人々。参加できなかった人達のメッセージが読み上げられる。騒音と喧騒でみんな聞いてはいないけど。名前に懐かしさが蘇る。
十代で入った会社の創業者がN.Y.で修行中に、母からの手紙が聖書よりも大切で大事なものだと話し、社員の誕生月には、ケーキを贈ってくれた。家庭的でアットホームの会社だった。間も無く創業も100年を迎えようとしている。

一人の先輩の男性が、会の締めに話された。「自分は昭和38年上京しこの会社に入り、翌年東京オリンピックを迎えたのです。2020年東京オリンピックの年にもう一度集まりましょう」

1964年のオリンピックの年まだ自分は高校生だった。この会社に入り数年後新幹線で大阪万博への市場調査をこの会社の上司は許してくれたことを思い出した。神田駅周辺の光景の今

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帰りには東京駅で降りた。中央郵便局へは仕事の荷物の発送や、新しい切手を買うためによく通った。
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駅舎の南口のドームとステーションホテルの入り口
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ひたすら光が美しい 昔の光も今の光も チリが踊る
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中央郵便局はKITTEビルに生まれ変わった
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化粧品メーカーのイベントが

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丸ビルにあるような古風な帽子

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最後に東京駅の東海道線ホームから 松本清張の作品「点と線」を思い出して


04月05日 [時]

当地の湘南地方の桜は、ようやく開花を始めました。桜にも種類があり、此の地で一番のシロヤマサクラの花は散り始めています。窓から此の白山桜の開花が遠望できます。都内ではソメイヨシノも満開のようですが此方は堅い蕾の木が多く、ヒートアイランドの東京が開花宣言一番の理由なのでしょうか。

先日50年ぶりの金沢の街を探訪しました。50年前にはなかったであろう高速道路を走り長旅でした。
50年前に10代の後半を迎えた私は、高校の卒業旅行で友人と二人、福井の東尋坊、魚津の埋れ木を見て
金沢で一泊した鉄道の旅でした。家の中のどこかにまだ兼六園の虹の橋の上で撮ったモノクロ写真の自分の姿が存在するはずです。

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途中雪の激しく降り始めた高速道路を走りながら、アメリカの情報ハイウエイの話を思い出しました。
確かアメリカのゴア副大統領の時代だったでしょうか。
自分がコンピュータという存在に興味を持ったのは高校生の頃でしょうか。会社に入り電算部というセクションにコンピュータ室が設けられていました。空調が制御された大きな部屋にリール式のテープが回っていてスリッパに履き替えて立ち入ったのを鮮明に覚えています。

その後初めてシャープのザウルスというポケコンを買って持ち歩き、出張計算の記録やパソコン通信でニフティに加入したのは、神戸の震災があった頃でした。パソ通仲間が、インターネットにアクセスし始め
会社でもドメインを取るのに急いでと担当者が動き回っていたのも、つい昨日のことのようです。
初めて買ったデジタルカメラはリコーの40万画素という横型の好きなデザインのモデルでした。

パソコンも富士通のFMタウンズが最初の所有でした。マックの世界はまだ憧れの価格と内容も思うほど理解できない世界でした。携帯電話も神戸の震災の頃から使い始め、電磁波障害を気にしてイヤホンマイクをつけて会話をしていました。当時の朝日ジャーナルにアメリカの電話会社ベルなどの交換手の女性が電磁波障害で受けたであろう不明の症状が多く見られるという記事が、電磁波への関心を呼んだからです。

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FMタウンズでプログラム言語を打ち込みテレビに繋ぎ、簡単なお絵かきが画面上でできた時は感激でした。その後、マックのノートパソコンを中古で買い、パワーブックのMacの世界にも接することができました。デスクトップはカラフルなiMacから、3代目の2007iMacにたどり着きました。OSも最新バージョンにはアップグレードできませんが内蔵ハードディスクをSSDに入れ替え快適な環境にすることができました。サポートセンターに不具合を相談し、かれこれ一週間も時間を費やしましたが快適な環境になりました。

タブレットの歴史も、最初にiPod touchを買い、その後iPadを三代使用して現在は、アイフォンが主役になっています。二十年以上前には携帯電話にカメラが搭載され、パソコン機能までも搭載されるとは夢にも思っていませんでした。時代の流れに流されないよう適度に距離を置きながら今日は50年を簡単位振り返ってみました。

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湘南から金沢までの道、高速道路や村の道、路地裏の道を歩き見ながら、情報の道も総て最新の未来的な世界の道では無いことを実感しました。

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さまざまなこと思い出す桜かな 芭蕉

花(桜開花)の情報がこれほど日本中を巡る国は世界にもまれ、とテレビでありました。
桜以外にも春の花が足元に木の上に咲いています。数年前の3.11ののちに自分で詠んだ俳句が以下の一句です。



    物気色春爛漫に横たわる    無音



もののけの色が妙に凄まじく音の無い世界に横たわる、この年の春でした。

7月30日 [時]

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大正3年(1914)の今日、今から102年ほど前の湘南大磯で、玉乗り興行一座が、北本町の空き地で興行を始めた。海水浴客や避暑のための別荘族で賑わう光景が目に浮かぶ。100年前の芸人はどのように見られていたのだろうか。「伊豆の踊子」を思い出す。1926年発表の川端康成作品だが、その時代背景や、当時の人々の階級社会や差別に対する考えは、今も変わっていないのではないか。

私が高校生の授業を受けた1960年代中ば、国語の教師が真剣な顔つきで、伊豆の踊子の教科書に載っていない点を指摘できた生徒には、最高点を出すと教壇で言った。伏字となっていた原作の部分を今も知らないが、職業での貴賤貧富を封印してきた社会が、教師には耐えられなかったのではないかと今にして思う。

昭和4年(1928)の今日水不足深刻、共同井戸では妻君達が喧嘩。旅館では隣町の平塚からトラックで水。
昭和8年(1935)名士の避暑。徳川公爵、原田熊雄、三井八郎右衛門、稲葉子爵、中村時蔵、木谷実氏ほか7000人に達す。

海水浴場に隣接した下町や近隣の町内では二階屋を早くから建築し、夏休みの期間中、家族は物置で寝起きをして、家は間貸や借家にして一年の生計費のほとんどを夏の三ヶ月で稼いだという。
明治18年から始まった海水茶屋(現在の海の家)の稼ぎも相当なものであったろう。

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       玉乗りが舞わす時代や海の家  無音








4月11日 [時]

千葉県佐原市の国立歴史博物館を見学した。縄文時代から現代に至るまでの時代ごとのジオラマが楽しい。十数分の一の模型と人物たちは当然ながら静止した時間だ。ふと始皇帝が指示した兵馬俑の人物たちの大きさを思った。等倍より大きめの人物や家に動物たちが作られたら、この地球がもう一個必要になってしまうと。時代ごとの物語を写真撮影オーケーという環境の中で楽しんだ。神の視点で。俯瞰して。
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写真撮影禁止のコーナーも数箇所あった。正倉院御物の展示から、差別に関する歴史の展示、満州事変関連のコーナーから。何か撮影禁止の博物館側の意図が何なのか逆に興味を惹かれてしまう。

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時代の物語は、このジオラマ以外の外の世界のがいかに多様だったか教えてくれる。決してジオラマが完成度が低いと言っているのではない。次元の問題だ。選ばれた場面は、選ばれなかった場面を鮮烈に思い起こしてくれた。


    ジオラマの外の世界は春爛漫     無音


    見下ろして吾は仏か春の空      無音


    進撃の巨人の気持ち春の日に     無音


    この国の歴史の一齣春が行く     無音


    動き出すジオラマの未来青嵐     無音





3月7日 [時]

大磯駅周辺の昔と今
明治20年開業当時の国鉄大磯駅初代の建物
彩色は横浜写真の手法か
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下り列車は客車と貨物の連結編成。駅前で発車時刻の前には鐘を鳴らして知らせたそうです。

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招仙閣という旅館が駅の山側にあり、駅から歩いて1分。伊藤博文公もこの旅館で大磯滄浪閣建設の指揮をとったという。その伊藤博文が使っていたという寝台で、横浜富貴楼のおかみ、お倉は亡くなったのも招仙閣だという。
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大正時代の大磯駅、駅前の人々は演出か。
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大磯駅を東京方面へ向かう蒸気機関車
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        春雨か霧が包みし陸蒸気  無音






2月6日 [時]

昨日は箱根湯元にいました。湯本の繁華街の路地をはいった一角で素敵な薬局を見つけました。表に大正時代の箱根の写真がたくさん展示され、壮観です。薬局の中にもどうぞと案内され階段三階まで、箱根の絵葉書所で満載です。先先代の方が絵葉書の原板を撮影し、絵はがきにして観光用に販売されていたようで、ガラス甲板から引き伸ばしたモノクロプリントも額に入り並びます。撮影されたカメラも置かれ凄い。朝方湯本の先塔の峰の、阿弥陀寺の大正時代の写真もあり茅葺き屋根で写っています。
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江戸時代の今から300年前に小田原の久野という大きな庄屋さんの家を本堂にしたそうで、大黒柱は幅60センチはゆうに超えていそうな構えです。
昨日撮影の阿弥陀寺は、以下の姿です。
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皇女和宮を祀る寺院としても有名なのだそうです。紫陽花が苔むした参道に咲くころは多くの人がお訪れるそうです。現在の住職が琵琶の名手で、琵琶寺、または紫陽花寺とも言われているそうです。
日本に四つしか現存しないという、巨大な数珠を回す装置が本堂の前に寄進されています。数珠の話を回すと木のきしみでチベットの山頂に鳴り響くような重低音の音が体の上に滝のように落ちてきて快感です。
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皇女和宮は麓の旅館、環水樓で静養中に逝去されたそうで、伊藤博文の薦めで東京から来られたとのこと。徳川家の将軍家茂は若き生涯を終えていた時のことです。阿弥陀寺には家康が戦場にも運んだという念持仏が和宮に贈られこの寺で拝観できます。和宮の写真も小さなものが祀られていました。
小さな写真では彼女の指先がなかったという真相もわかりませんでした。
篤姫も菩提を弔いに此の地まで訪れたということです。
激しい川の流れが姫たちの生涯を知っているかのように流れていました。
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熱海の昔の写真も、湯本の薬局には飾られていました。
坂を降りれば海があったのでしょう。大正時代の熱海でしょうか。
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早川の河縁をしなやかに猫がやってきます。野良かな

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  水のように体運びし猫の春  ムオン







2月4日 [時]

昨日は秦野出雲大社分社の節分会に、行ってきました。
伊勢ヶ濱部屋の、横綱日馬富士や、安美錦と関取たちが、豆撒きをしました。
豆撒きは、沢山の人出で、福豆1袋だけゲットで満足しました。
隣のおばちゃんは、10袋ゲット。流石です。
帰り道ドブに景品の紙を抜き取った豆が、無残に捨てられているのを見ました。

捨てたひとには、何か罰当たりの事が起きるだろうと思い悲しくなりました。
飽食の時代、飢えとは何か知らぬ人なのでしよう。

日本人力士の活躍も少ない事が、豆の姿と重なって当然のように思えてきました。
豊かさとは何か考えさせます。
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十月二十八日 [時]

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   新たなる文字見て秋の空を見る  無音



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時が過ぎ、看板の文字に風格の割れ、罅、破れ、古色、が滲み出てきていた。
街中で鏡の中の自分を見る。思わずこんなに年をとったのかと唖然とする。風格はないが古色はかなりついた面構え。店の人も、駅員も、皆々なんと若く見えることか。

八月二十日 [時]

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秋田県八幡平の北側に位置する温泉に昨日から来ています。
東北の山間部では既に、小さな秋の気配。



銃口は冬の時代か秋の空 むおん




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