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8月22日 [音]

香りに音色があるのだろうか。
友人が本の朗読ソフトの聴き放題を試しているというが、本は読み放題が好き。
本は見るもの、聞くものでは無いと思う。
然し、音読や、黙読というのもアリか。
香りに色を感じ、音を感じることもありなのか。

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じんじゃあの白きかをりや秋近し むおん













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ひっそりと朱夏に茶漬けとしろき花 むおん







1月17日 [音]

机上の蹲(つくばい)になるような小石を二つ、海辺より拾ってきた。
蹲の存在の大きさとは、何なのか。
石の上の水溜り、岩の上の池、岩盤の湖。渇いた石と、濡れた水。
変わらぬ石と、変幻自在の水。
大いなる自然の暗示。
一滴の雨が蹲の深い穴に落ちる。
一滴の叫び




蹲の上なる雲が涙する むおん

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蹲に雨一滴の大音声 むおん



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冬の天今日も穴掘る小石かな 無音







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四月二十日 [音]

食べてしまいたいほどの新緑の柔らかな緑。毎年木の芽を摘んで、半日ほど笊の上で陰干しし、フライパンで乾煎りし、醤油を少し加えて、木の芽の佃煮をつくる。鎌倉の作家に真似て毎年白い炊き立てご飯の上に飾り、香りを楽しんでいる。昨日山の方から掘りたての筍をいただいた。
筍ご飯の上の木の芽もよく似合う。竹林と山椒の木がともに自然にそこにある季節と豊かさに感謝。盆栽の紅葉も柔らかな芽を吹き、葉を広げた。幼いものが若く一瞬に成長していく姿は、生き物全てに共通だ。固まり枯れ始めた我が指の枝で、キーボードを叩く。若さとは柔らかきこと、老いとは固まることと頭が言う。否身体が軋みをあげて言っているのかもしれない。
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明治42年 大磯の梅林計画、八俵山下の新池と、揚谷寺山。
大磯丘陵の麓には池が昔多かった。豊富な水脈の龍が今も生きているのだろう。小川にも雨が降って数週間まで地下水が躍りでる様を見かける。

明治24年 県や市などの出勤退出時間改め、朝8時出、3時退出とする。サマータイムの実施が百年前にも実施されたのか。

昭和16年 鮪100余尾。鮫11尾の大漁。鮪はどれだけの大きさだったのか。

平成27年4月20日 湘南地方、曇り午後より雨 八重桜、藤、山吹の花満開。

三月二日 [音]

昨夜携帯電話の契約内容をネットから見た。他項目のサービス内容、料金設定、複雑系の極みでさっぱり分からない。携帯電話から電話会社に電話して同じく契約内容を確認した。最近の電話では目的の内容確認まで、非常に時間がかかる。質問内容に選択が幾つかあり、その選択の先に、また選択をしてくださいと、枝分かれに選択肢が始まる。ツリー構造のどこまで先に行けば繋がるのか、いい加減にうんざりする。その先に待ち時間が10分以上かかるとあり、お急ぎの方やネットで解決のできる方はそちらからとの繰り返しの案内。挙げ句の果てに15分以上待って、契約のパスワードをよろしかったら教えてください。教えなければその先に行けないので、答えると関門通過。おまけに通話内容は録音させていただいていますとの脅迫的なアナウンス。ネットで不明の点を確認したいのに長蛇の列で回答を得た。その間優に30分。電話って何なのと考えた。
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満開のミモザ、我が家のミモザはまだ蕾です。
固定電話に電話がかかると、コマーシャルベースの電話ばかり、「メールで送ってください」というとその先電話はかからなくなる。固定電話ってなんなのか、家の中でも子機が便利で家中どこでも子機仕様のが多くなる。携帯電話は今ではケイタイと呼称が変わり、ガラケー、古機と呼ばれる時代。スマホという言葉が出てきた数年前何か嫌な予感がした。
携帯電話の機能が、会話機能から、様々な情報入手の機械となり、音質が落ち、電話の機能は隅の隅に隠れていった。
このままでは電話会社や電話店の電話をとって違う名称に変えたほうがわかりやすい。よりシンプルが好きなのになんで世の中複雑化を推進していくのだろう。

昭和28年3月2日 湘南二市四郡中学駅伝開かれる。平塚小田原間40キロで開催とある。平塚市、小田原市、中郡、足柄上郡、足柄下郡、高座郡の参加者だったのだろうか。当時の電話は固定電話で、有線電話という呼び出し電話も使われていたのだろうか。電話はかって、玄関先や、旅館などでは室内にも電話室などがあった。平成27年の今では路上の電話ボックスも見当たらない。

一月十三日 [音]

平成27年1月13日午前8時頃、飼い犬が外で落ち着かない。何か隠れる場所がないか、何ものかに怯えている。その正体が暫く考えてわかった。腹の底迄、ズシンズシンと響く音。真西より少し北側の空から聞こえてくる。地図を拡げその方角にスケールを乗せると、富士山に重なる。この町からは約55キロ。その山の麓に、陸上自衛隊東富士演習場がある。数年前にも書いたが、音の正体は、ここの様だ。
気象条件と、音源となる銃器の種類。地形からみて、此処まで音は届くのだろう。ネットでは50年位前からも聞こえてくるようだ。相模湾周辺の鎌倉、藤沢、小田原あたりの広範囲に音と振動が届いているようだ。富士の噴火とは関係ないようだが、イタリアの火山の爆発を制御しようと火口にミサイルを何機か打ち込もうとした話を思い出した。音が激しくなると、その音源に近ずくと、人間の神経に多大な影響を想像した。生き物総てもそれに反応し、あるものは、麻痺しているのだろう。人間たちも麻痺したものが多いのかと。沖縄の基地の音を想像した。耳が聞く音と、身体が身体で振動を感じること。
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懐かしい紅玉リンゴと、昨年心を惹かれた木工作家さんの胡桃の木の林檎。面取りが丁寧に刻まれて心が落ち着く。小さな仏像を連想した。
昭和十年、初代芸術新潮編集長、菊池重三郎氏34歳、大磯に東京より転居。島崎藤村の弟子、天明愛吉氏は、山王町松並木にあった佐野経師店の店頭に、藤村の「小諸なる古城の」軸を見て、経師屋からその所有者、菊池重三郎氏宅を尋ねた。二人は其の後昭和16年1月14日の夜に島崎藤村を大磯の左義長に招いたという。文豪獅子文六氏も菊池氏に勧められ大磯の地に東京お茶水から転居した。菊池氏夫人の左義長の晩の光景が書かれた紙片を、以前この町の資料館で見た。佐儀長と書かれた文字と、大内館の毛布を頭に被り浜に降りて見物されたという記述を思い出しました。

みずどけい [音]

下町で車の背に映る家々の光景を見て考えた
其所から聴こえてくるものは

むかし水時計というモノを昔見た記憶がある。時は流れるという。本当に時は流れているのだろうか。
今此の瞬間しか世界には存在しない。昨日も明日という時も総ては人間の頭の中のみに存在する。
悠久の過去も、今現在の瞬間の中にしか存在しない。
時とは何なのか?普段から気になっていた。
最近「若き古代」という素敵な本を知った。日本の古代、時間という考え方は無かったという。水時計という文明の器機がやってきて、この国では時が流れ始めたという。不思議な話だ。
水時計以前の人々の時という概念は何だったのだろうか。
それは、音という存在も消えるものではなく、空間に存在するもののように考えられていたという。
鳥の声が聴こえ、その鳴声が聞こえなくなっても、その鳴声は存在していた。諸行無常の世界以前の話なのだろうか。日本の古代の原理の中で、『重ねる』という事が最も重要という。
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「若き古代」の中で素晴らしい事が描かれているようだ。『重ねる』という行為の中でレイヤーという世界を頭の中では思ってしまう。西洋的な百人のオーケストラのコンサートでは100人の奏者が必要となる。西洋では「音」もモノとして分解し、五線譜という設計図に顕わし、進化を遂げた楽器で演奏するというのが常識だが、日本の古代の演奏は一人の個人が百回それぞれの楽器で奏でたものを、重ねあわせて全体の曲にするという。西洋のモノとしての音の分解と、東洋の空間の中の音の存在。何かレイヤーで総てを統合する作業に似ている。時間を重ねるという発想が衝撃的に感じる。而も日本の楽器が目指すのは進化ではなく、限りなく逆進化の楽器が多いという。確かに三味線や、琵琶、尺八、人間の聲、限りなく不安定要素が多いものが究極に求められている。これは自然界に対立するのでなく歩み寄る姿勢だという。
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さまざまのねいろあつまり春つくる

「若き古代」の中で着目したいのが、「虚階」という言葉だ。「こかい」と呼び、「日本の伝統音楽の演奏において、『虚階』という特殊な演出。演奏家と聴衆との間にあるコンセンサスが出来ているとき、例えば同じリズムパターンを反復しているとき、その一部分を、音を出さず沈黙の状態にすることを『虚階』という。聴衆は音がないフレーズを、自分の想像力で補って次のフレーズに繋げる。」

「ただ一方的に聴かせるだけでは聴く方もただ受容するだけになる。眠くもなろう。虚階は聴くものの意識を活性化するための仕掛けである。物理的には聞こえない音を聴く、禅宗では鳴かぬ鳥の声に譬えられる観念的な演奏である。」

つまり「音の無い世界」頭の中では、音が聞こえている世界。視聴者が参加する世界。
サイレントでなく、存在する音。

雅楽で「残学」のこりがくという演奏は有名だそうである。同じ曲を3回繰り返す。一回目と二回目は前楽器がまともに合奏する。ここで聴衆は充分曲の様相を頭に入れておく。三回目は旋律楽器が徐々に脱落して拍子だけが残る。聴衆が拍子を聴きながら、自分で記憶している旋律を頭の中で拍子に合わせて演奏を楽しむ。何かレイヤーで欠如したものを作り、それを補う事のが決定的に完全なものより、力を発揮する。そんな世界を連想する。欠如が何か大事なものになる奇蹟。欠けた王の存在。

日本の古代の弘法大師が伝えた、釈迦の世界の再現は、鳥の聲、石の聲、貝殻の聲、木の聲、大地の聲等を一斉に再現すると釈迦の世界に近づけると言ったという。その聲達は釈迦の一部だからとも言う。
聲明はチベットが原点とも聞く。音と時の考え方が興味深い。

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「若き古代」は手元についていないが注文をしました。本が着く前にネットで調べたり、書評や著者像をみる事は可能な世界ですが、本が持つ存在感と実際読む事で変わる何かがあるはずです。
読前感想文として、期待するイメージを連ねています。
この本の中で書かれている「クレオール」という世界が何か希望を予感します。
今の世界は民族主義がより強まっています。それは民族というものが崩壊する予感にも通じます。
この国では家族が既に崩壊し、国も崩壊しつつあります。
それは新たな国家像や、次の家族に変わる世界を人々が求めているのだと思います。
「若き古代」というタイトルは、古代の原理という意味でつけられたもののようです。
「老いたる現代」を若き現代の視点で読みたいものと考えています。
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同じように見える海も刻々と世界を変えています
変わらぬように見える世界が安らぎを与えてくれますが
無常という言葉は総てが変わっていく世界をあらわします
変わり方は激しい場合と、ゆったりとした場合で大きく違います
海を見つめると激しい変化と雄大な流れの変化が何重にも重なって見えます
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みずどけいいらかのなみもはるをつげ


あおふかくはるしずませてみずとけい

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みずとけいかなでしいろやミモザかな

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みもざさくそのまたおくもみもざなり 

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若き王よまざるまえに春に訊く      無 音

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