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七月十二日 [雨]

雨に濡れ取り込まれずに、物干し場で濡れる洗濯物ほど哀れなものはない。最近の家屋構造と洗濯は室内で干すか、乾燥機にかける暮らしの中で、外から目に付く洗濯干しの光景は地方に行かないと見かけない。黄砂や公害の大気に干すことより、室内で処理することが当たり前の時代だからだろう。太陽の下で輝く白さの洗濯物のはためく姿を見かけると元気になる。長い物干しに満艦飾で干された中国の洗濯物、一家全員の構成の白い下着がロープに干されたドイツのある町の洗濯物、カイロで見た石の家から突き出された洗濯物の束。
何か洗濯は、若返りの秘訣でもあるのかと、よその家のそれを眺めてしまう。
物干し場.jpg
ユニクロの時代が終わったという。大量生産で価格を安くして使い捨てのような時代から、自動販売機で手軽に買えたり、ネットで簡単に買える時代だ。大量に並べられた食品や、衣料品の群れは何か食欲も、着たいという欲望もわかない。コンビニのようにそこいらじゅうにあるモノには、ありがたみも無くなっていくのだろう。反面便利で手に入れやすいものは弱者にはありがたい世界なのだが。
ユニクロといえば代名詞だった、フリースの製品を思い出す。あの肌触りと軽さ夢の風合いだった。アメリカから輸入されるフリースの生地が原料代も高く貴重だった頃、安い価格で大量に売り出した。数十年前の本家にはアウトドア〜メーカーのパタゴニアやモンベルがあった。
ユニクロが学んだギャップや、ベネトンの時代からユニクロは大きく生き延びた。大衆車の躍進のように世界に広げた店舗も、大衆の支持は一気になくなる時代へと入ったのか。

百年の間に、人間の着るものは、限りなく下着化してきた。それは厚い鎧を脱ぎ捨て、スポーツウエアーや、部屋着の範疇に向かっている。Tシャツやステテコも下着だった。
その要因を推し進めるものは、機密構造の住宅構造や、着るコンピュータと言われるウエアラブルな世界でもあることに気づいた。環境が変われば人間も変わる。今の家や、車も人は身に纏っているのだということに何か新鮮な気持ちを思えた。

ユニクロさん、明日は車を着る提案や、家を着る提案に進路変更したらどうでしょうか。
音楽を着るのでも、もちろんオーケーですよ。

七月六日 [雨]

雨の波紋を見つめた。輪の広がりと、重なりと、落ちる水滴に、何かが潜む。

波紋歌.jpg
昭和12年7月6日大磯紅葉山山麓の酒井忠克伯爵別荘に近衛首相が避暑。踏切や道路を慌てて拡張。紅葉山山麓は大磯駅の山側東方にある。駅にはかって山側にも跨線橋があり山側の出口があったが、昭和12年には使われていなかったのだろう。平塚側にホームの東側の踏切があった痕跡が今でもはっきりとある。この踏切を整備して山側に渡ったのだろう。線路伝いに山に渡り北へ細い道を入ると別荘はあった。後に大磯観光ホテルなるものがこの地にできたという話だが現在は雛壇状の空き地で大きな紅葉と棕櫚の木が何本か聳えている。酒井忠克氏の由来は福井小浜藩の領主だったのでは。

昭和18年平塚と接する大磯練馬場で草刈り競技会。紅一点の参加は平塚土沢の女性。彼女が当時15歳として今は、70代半ば。草を刈る競技は鎌だったのか。

平成7年(1995)コクド、大磯プリンスボーリング場開業24レーン。以前は昭和48年オープンの西友ストアーで昭和58年の10年後に閉店した。海側の交通の便が良くない場所のためか今は空き地となっている。ボーリング場の跡に西友ストアーと思っていたが逆だったのか。ボーリングブームは遥か昔だったのだ。アメリカの独立記念日に基地の中の小さな木のレーンのボーリングを始めてみたのは、1968年頃だった気がする。ところが1970年に36レーンのボーリング場を大磯プリンスは開業している。第一次ボーリングブームは1970年代の始めにあったようだ。1995年コクドのボーリング場は別の敷地になるのだろう。


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