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一月四日 [人]

昨日は三ヶ日最後とあって、高麗山の麓高来神社に詣でた。元来高麗山が御神体で山頂には昔本殿があったようだが今はない。高句麗の王若光が、この地に海から来て住み着き、北へ開拓の足を伸ばし、埼玉県の高麗神社付近に居を構えたという話が残っている。大磯の高来神社の境内では古くは鉄を生産していた痕跡もあるようでそのカナクソの欠片が拾えたという。その境内で子供達の習字が一面に掲示された一角があった。
元気な文字たちを見ると、こちらも元気がもらえそうな光景だった。
一月四日.jpg
昭和三年一月四日 横浜新報の記事に、徳恵姫、李王殿下御別邸へ来磯とある。李朝最後の皇太子、李垠殿下は十歳で日本へ留学の為として伊藤博文に連れてこられたという。大磯の伊藤博文の本邸が滄浪閣として、東海道の松並木の続く一角にあり、伊藤博文亡き後、李垠殿下に譲られたのが大正の頃だという。昭和三年の頃は30歳の李垠殿下、義理の妹の徳恵姫は15歳。日本に来てから3年目の姫と、日本に来て20年目の李垠殿下、二人はどんな会話をされて滄浪閣へ向かわれたのだろう。その滄浪閣の東側には鍋島公爵の別荘があった。この別荘の主人鍋島直大公爵の孫娘の梨本宮方子さんが、李垠殿下の妻になるとは不思議な縁を思います。その婚約発表を大磯の梨本宮別荘で知ったのも縁なのでしょう。

数年前、伊藤博文没後百周年の年、韓国では徳恵姫の生涯を描いた『徳恵翁主(トッケオンジュ)』がベストセラーになっていたことを最近知りました。昭和3年の1月3日の昨日来磯した東久邇宮厚王13歳と、弟ぎみの影常王の向かわれた先は、何故か滄浪閣のような気がするのです。
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