03月05日 [言葉]
ふたたび『さざれ石』考
九年ほど前にこのブログで、さざれ石考を書いた。
1676年 延宝四年十一月十四日 江戸の大磯の宿場に残る覚え書きに 以下のものを見つけた。
覚 一砂利 二千叺(かます) 但二斗入 右は紀州様御用の由に候間、其元小嶋才三郎ひろはせ可レ被レ申候。此外一俵なりとも、とらせ申間敷候以上。坪井甚之丞
大磯下町 七左衛門
とある。紀州の殿様と此の町の縁はかなり深かったとよく聞く。砂利とは五色砂利とあり、大磯の浦は海にて名物の小石あり、五色にて美しければ、人愛して盆栽に入れて喜ぶとある。相模風土記には、砂利、大磯宿海浜の産、その種類五色、或は中栗、白斑、黒小砂利などあり、時に命ありて公に納む。この砂利採取権は、大磯宿本陣の、一つである小嶋才三郎にあった。
この砂利は売り出されたという。中栗砂利 一叺 永十八文六分。五色砂利 一升 永十文八分。白斑微塵 一升 銀六十匁。
小嶋本陣ではこれを色砂利と称して、休泊者に献上した。大抵は金百疋下される。
しかし中には楊枝差しや南鑢(やすり)一片ぐらいですますのもいるし、いらないというものもあったという。
とにかくこの色砂利は小嶋本陣の収入源の一つであったという。以上『むかしの宿 むかしの旅 大磯・小嶋本陣を中心に』 小丸俊雄著より
以上なのだが、その後新たな発見があった。此の町の国道一号線旧東海道のバス停に「さざれ石」というバス停がある。江戸時代小嶋本陣が採取権を持った、相模灘の大磯の海辺、こよろぎの浜一帯で採れる全国でも有名だった「大磯石」がバス停の名に残るのだ。
こよろぎの浜から見える富士と黒松の林。
昔の絵はがき書の中の、こよろぎの浜
荒波に砕けて、江戸城の敷石にも献上されたというさざれ石が生まれる。
波が引いた後の、小石の美しさは、左官の職人による「洗い出し」という名で全国の左官仕上げの一つとして広がっていったという。
百年以上前の此の町が、海水浴と別荘地として賑わった時代に撮られた一枚の写真。
此の撮影場所がわかった。
上記の写真の右手に「さざれ石」と看板のある店が写る。
拡大すると以下
これは寿堂という三日月藩元藩士が始めた菓子屋が、海岸のさざれ石を模して作った飴の菓子だという。お茶うけにもぴったりと徳川家の御典医だった松本順軍医総監が名付けた菓子の名で、今でもこの味を知る人は町には多くいる。
寿堂は南本町海水浴道路に降りる道の右の角にあったという。
そしてその斜め前あたりが百足屋旅館。この百足屋旅館の離れで新島襄が明治二十三年2月に亡くなり
遺骸は京都へ列車で運ばれた。
ちょうどこの辺り宿場町の真ん中に近く直角に祝の中の道は曲がっていた。自動車が不普及しだすとこの曲がり角でよく車が横転したという。そのため新しく東海道は緩やかなカーブに新しい道を拡げ、百足屋の敷地は削られ道が横断した。
以下現在の航空写真から見た撮影場所の推測である。大正時代に寿堂の東側に海水浴道路ができ、直角の道には新しいカーブの東海道ができた。明治の写真はいずれの道路もできる前の撮影であり、写っている人物なども特定できれば面白いと思う。
百足屋旅館の玄関は、渋沢栄一の長男により明治の頃撮影されたものが、その子渋沢敬三氏により写真集となっている。その中のページに今はなき玄関の写る写真があり、東海道の一行の左側に荷車のある場所が、百足屋旅館の東側の一部と推察されるように写っている。
さざれ石は、細雪と同じように、さざれとは、小さなを意味するのだろうが、もう一つの「君が代」のさざれ石がある。岐阜県土岐地方を旅した時、さざれ石の小さなものを頂いた。小石が集まり塊が大きくなると巌となるのだろうが、全国の神社などで大きなさざれ石を見かける。このさざれ石の塊既成の時に生じるのだろうが中が空洞である。
上から見た空洞。
中は白いチョークのような粉末の砂の状態で、古くはこの粉末を血止めに利用したという。
そして正月初めに江戸城の大奥で行われていたという「おさざれ石」という石を用いた行事のこと。
千代に八千代にと幕府の永からんことを願って幾つかの石を手で回したような気がしてきた。
本題のそれますが、国家君が代は世界中の国の国家が、行進曲のような勇ましいものが多いのに、何か鎮魂の歌のように厳かで静かなのは不思議な気がしますね。
波の打ち寄せ、引いていく自然のリズムを国歌に感じてしまいます。今日はこの辺にて
九年ほど前にこのブログで、さざれ石考を書いた。
1676年 延宝四年十一月十四日 江戸の大磯の宿場に残る覚え書きに 以下のものを見つけた。
覚 一砂利 二千叺(かます) 但二斗入 右は紀州様御用の由に候間、其元小嶋才三郎ひろはせ可レ被レ申候。此外一俵なりとも、とらせ申間敷候以上。坪井甚之丞
大磯下町 七左衛門
とある。紀州の殿様と此の町の縁はかなり深かったとよく聞く。砂利とは五色砂利とあり、大磯の浦は海にて名物の小石あり、五色にて美しければ、人愛して盆栽に入れて喜ぶとある。相模風土記には、砂利、大磯宿海浜の産、その種類五色、或は中栗、白斑、黒小砂利などあり、時に命ありて公に納む。この砂利採取権は、大磯宿本陣の、一つである小嶋才三郎にあった。
この砂利は売り出されたという。中栗砂利 一叺 永十八文六分。五色砂利 一升 永十文八分。白斑微塵 一升 銀六十匁。
小嶋本陣ではこれを色砂利と称して、休泊者に献上した。大抵は金百疋下される。
しかし中には楊枝差しや南鑢(やすり)一片ぐらいですますのもいるし、いらないというものもあったという。
とにかくこの色砂利は小嶋本陣の収入源の一つであったという。以上『むかしの宿 むかしの旅 大磯・小嶋本陣を中心に』 小丸俊雄著より
以上なのだが、その後新たな発見があった。此の町の国道一号線旧東海道のバス停に「さざれ石」というバス停がある。江戸時代小嶋本陣が採取権を持った、相模灘の大磯の海辺、こよろぎの浜一帯で採れる全国でも有名だった「大磯石」がバス停の名に残るのだ。
こよろぎの浜から見える富士と黒松の林。
昔の絵はがき書の中の、こよろぎの浜
荒波に砕けて、江戸城の敷石にも献上されたというさざれ石が生まれる。
波が引いた後の、小石の美しさは、左官の職人による「洗い出し」という名で全国の左官仕上げの一つとして広がっていったという。
百年以上前の此の町が、海水浴と別荘地として賑わった時代に撮られた一枚の写真。
此の撮影場所がわかった。
上記の写真の右手に「さざれ石」と看板のある店が写る。
拡大すると以下
これは寿堂という三日月藩元藩士が始めた菓子屋が、海岸のさざれ石を模して作った飴の菓子だという。お茶うけにもぴったりと徳川家の御典医だった松本順軍医総監が名付けた菓子の名で、今でもこの味を知る人は町には多くいる。
寿堂は南本町海水浴道路に降りる道の右の角にあったという。
そしてその斜め前あたりが百足屋旅館。この百足屋旅館の離れで新島襄が明治二十三年2月に亡くなり
遺骸は京都へ列車で運ばれた。
ちょうどこの辺り宿場町の真ん中に近く直角に祝の中の道は曲がっていた。自動車が不普及しだすとこの曲がり角でよく車が横転したという。そのため新しく東海道は緩やかなカーブに新しい道を拡げ、百足屋の敷地は削られ道が横断した。
以下現在の航空写真から見た撮影場所の推測である。大正時代に寿堂の東側に海水浴道路ができ、直角の道には新しいカーブの東海道ができた。明治の写真はいずれの道路もできる前の撮影であり、写っている人物なども特定できれば面白いと思う。
百足屋旅館の玄関は、渋沢栄一の長男により明治の頃撮影されたものが、その子渋沢敬三氏により写真集となっている。その中のページに今はなき玄関の写る写真があり、東海道の一行の左側に荷車のある場所が、百足屋旅館の東側の一部と推察されるように写っている。
さざれ石は、細雪と同じように、さざれとは、小さなを意味するのだろうが、もう一つの「君が代」のさざれ石がある。岐阜県土岐地方を旅した時、さざれ石の小さなものを頂いた。小石が集まり塊が大きくなると巌となるのだろうが、全国の神社などで大きなさざれ石を見かける。このさざれ石の塊既成の時に生じるのだろうが中が空洞である。
上から見た空洞。
中は白いチョークのような粉末の砂の状態で、古くはこの粉末を血止めに利用したという。
そして正月初めに江戸城の大奥で行われていたという「おさざれ石」という石を用いた行事のこと。
千代に八千代にと幕府の永からんことを願って幾つかの石を手で回したような気がしてきた。
本題のそれますが、国家君が代は世界中の国の国家が、行進曲のような勇ましいものが多いのに、何か鎮魂の歌のように厳かで静かなのは不思議な気がしますね。
波の打ち寄せ、引いていく自然のリズムを国歌に感じてしまいます。今日はこの辺にて
2017-03-05 19:39
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コメント(4)
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大磯の「さざれ石」勉強になりました。
恥ずかしながら、国歌の「さざれ石」の意味は、何年か前に伊勢神宮に参拝した際、そこで見た「さざれ石」のお蔭で初めて理解したのでした。
by 粋田化石 (2017-03-05 19:57)
読みながら、熱帯魚の水槽に入っている砂・小石?は確か
大磯砂だったことを思い出しました。
by 斗夢 (2017-03-06 12:42)
大変興味深く、読ませていただきました。よく調べられましたね。
by 金太郎 (2019-05-09 17:25)
早速、掲載なさっている明治時代の「さざれ石」店舗の写真と、最近私が家で発見した「寿堂」の開店祝いおよび、店舗正面の写真とを見比べてみたところ、看板の形、提灯の柄、建屋の形が、全て一致しました。当時の店の周りの状況を知ると事ができ、大変感動しました。有難うございました。「さざれ石」は、井上寿が考案し、ちょうど当時、大磯に滞在していた井上寿の茶の友であった東京西久保の菓子屋壺屋の当主であった藤田翁にアドバイスを受けて誕生した菓子で、同じく茶の友であった松本順がその妙を称え「さざれ石」と名付けた菓子であったことが最近分かりました。
by 金太郎 (2019-05-09 20:34)