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四月六日 [かたち]

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昨日のTVの日曜日美術館は見応えがあった。琳派の特集で尾形光琳の燕子花図屏風と、紅白梅図屏風を中心に、現代に繋がる江戸からの琳派の系譜を構成し大変楽しかった。
現代作家が述べる燕子花屏風の、燕子花の花の構図がコピーアンドペストで作られている心地よさ。左右に展開する燕子花の群落の捉え方の、画角が無いと言った現代作家。コピーアンドペーストの反復する構図とリズムは、着物の柄と反物の上での反復する柄を思い出した。木版で襖の柄を繰り返して展開する世界とも繋がっていく。
畳語として、同じ言葉を重ねて展開する面白さをも連想した。
重なることや繰り返すこと、型があってその型が増幅して群れとなる世界の面白さと、力強さ。
画角の無いとは、無限に展開する縦へも横にも上にも下にも展開する世界の一部を、切り取ったというふうに理解した。フレームの外に自由に展開する世界。それは、外の世界が描かれていないからこそ見えてくる世界でもあるんだろう。見えないものこそ大切だ。
先日上野公園で、桜の花の枝と柳の枝が重なる構図で写真を撮った。フレームの中には、花見の雑踏も、老木の柳の幹も、桜の向こうの街の雑踏も写っていない。
燕子花の群落を、今そこにある生命、そこに立つ女性たちの優雅さと例えた作家もいた。
紅白梅図は、老いた男と、若き男の間に立つ、女性像の河という解釈もあった。

昨年亡くなった赤瀬川原平さんの、「我輩は比喩である」という言葉をふと思い出した。
『前略、人間だから生きていれば何か言いたいことがある。でも論理が展開できない。頭の知識はカラだ。すると言いたいことが頭というか身体からじかに、物を伝わって出てくる。「それは例えば、、、」となってくるのが比喩である」と言われていた。
画家や、写真家や、小説家は、比喩としてのモノを前に押し出して気持ちや、思想を伝えるのだろうか。比喩としての琳派の作品、なぜ現代でも受けるのだろうかと考えた。琳派とは何かより判らなくなった。

自分なりには、着物文化なり、江戸の生活をより洗練させた遊び心の一派が、琳派なのだろうと思う。現代の琳派、未来の琳派、遊び心に尽きる気がするのだが。型はあるのだろうか。

大正13年4月6日(1924) 湘南大磯の湯屋で、ライオン歯磨き本舗の花嫁が、入浴中プラチナ製の腕時計を盗まれる。ライオン歯磨き本舗の小林家の別荘は今も大磯カソリック教会のある場所にあり、そこから近くの湯屋というと、長者町松の湯か、山王町磯の湯辺りだろうか。

昭和8年4月6日 東京蒲田の松竹キネマ撮影所の移転先、敷地1万坪寄付が移転条件。湘南大磯の西小磯にある本郷山周辺の敷地が撮影所の候補に挙がったが実現はしなかった。
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そらへい

「我輩は比喩である」
面白い表現ですね。
一種の諧謔、皮肉のようにも取れますね。
己と表現されたものの立場が逆転しているような・・・

by そらへい (2015-04-06 21:20) 

SILENT

そらへい様
己と表現されたものの立場の逆転
いいですね。原平さんの作品で、宇宙缶詰なるものがあって、大好きです。缶詰のラベルを缶の内側に貼って、缶詰の中の世界と外にある宇宙空間を見事にひっくり返した世界。見事です。
夏目漱石も比喩を使いこなす天才のようですね。

by SILENT (2015-04-07 07:18) 

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