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1947年12月昭和二十二年十二月と書かれた、色紙の絵をある御宅で興味深く拝見した。
私が生まれる一年前の日付である。足引山爾白者我屋戸爾昨日暮零之雪疑意
昭和二十二年十二月 義恭 とある。絵は冷え冷えとした銀泥の満月と、くちなしの実。
まず文字の美しさに惹かれた。一文字一文字が緩やかに丁寧な筆の運びを見せている。
良寛の文字だ。良寛と言えば、この町に良寛の文字を愛でた日本画家安田靫彦さんが住んでおられた。安田画伯は俵屋宗達を世に出した方としても知られる。此の色紙に見られる義恭という方は何ものなのか。数ヶ月かかって調べてみた。
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文にある足引山は何処にあるのか?奈良県の大和にある大和三山のひとつ耳成山の別称が、足引山であることがわかった。みみなしやまに、くちなし、不思議な組み合わせだ。ネットによれば耳成山には山梔子が多く自生するとある。
歌に詠われる山梔子も、花より実である事が判った。其の実の姿は不思議な炎の冠をつけている。おまけに山梔子は古来から染料として使われて来た。絵では、たらしこみ技法で山梔子の実も葉も描かれている。
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安田画伯が奈良の藤原京を愛された事は聞いていた。足引山に白き雪が振り、わが住む谷戸にも雪の疑い、と読んだが、屋戸は宿であるのかと今気づいた。耳成山の近くに宿をとった時の情景なのだろうか。作者の義恭は、よしやすと読み、徳川義恭という方だろうと推測が出来た。昭和二十三年八月に発行の「宗達の水墨画」の著者でもあった。
大磯には父上の別荘があり、彼も大磯にはよく来ておられたようだ。特に疎開的な意味で戦前から来ておられたのだろうか。安田画伯と共同の宗達研究もされていた。三島由紀夫の学友で、三島の処女作「花ざかりの森」の装幀もされている。三島は「貴顯」という短編小説で、義恭氏をモデルにもした。大磯にある大内館と言う旅館で三島が「潮騒」を執筆したというのも義恭氏の縁であろうか。川端康成全集の装丁画を安田靫彦画伯が描かれたというのも何か
不思議な縁を感じ取れる。徳川義恭氏は1949年12月28歳の若さで亡くなられた。
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