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瞬間の累積 その2.線香花火 [写真]

明治35愛松園.jpg
明治35年夏 大磯百足屋旅館別館の愛松園での線香花火。室内で線香花火との趣向は面白い。瞬間の累積写真集より。この百足屋離れでは同志社の創設者新島襄が療養中亡くなっている。
新島襄と近くの祷龍館に滞在中だった渋沢栄一はお互いを見舞う交流の跡を残している。
愛松園付近.jpg
愛松園近くの明治23年に開かれた切り通しの現在。
S室内.jpg
明治35年愛松園の室内での目隠しゲーム。大勢の人が集まり裸電球が眩しい。何故かこれだけの人々が集う光景は懐かしさを覚えるのは何故か。
澁澤氏.jpg
撮影者の澁澤篤二氏。61歳。父は澁澤栄一でわけあって二代目は継がず息子敬三氏が二代目となったそうだ。敬三氏は知る人ぞ知る民俗学の巨人、この大磯の地に住んだ写真家濱谷浩氏に与えた影響も大である。
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コメント 3

駅員3

大磯は明治に入ってから開けたのでしょうか?
それとも…
こちらのblogにおじゃまいたすよになってから、大磯の歴史、特に明治以降の近代に、大変興味を抱くようになりました。
by 駅員3 (2009-07-13 17:23) 

SILENT

駅員3さん
大磯は平安時代に国府が開かれ、国府という地名と歴史が残っています。自然が豊かな環境だったんでしょう。鎌倉時代には曽我物語で有名な虎御前が住む町として街道も栄え、江戸時代には東海道五十三次の宿場町として栄えました。明治に入り海水浴場が開かれ多くの別荘が建ちました。全国でのイメージは明治に入り別荘の町大磯として一番有名になりました。大磯ロングビーチも少し前迄有名な名前でしたが。
by SILENT (2009-07-13 19:22) 

駅員3

SILENTさん、ご丁寧にありがとうございます。
そうですね、確かに「国府」という地名がありましたね。
そういう意味では、現在の東京の都心部の歴史は、大田道灌以降であり、比較的新しいものですね。
それ以前の関東の中心地は、府中、国分寺あたりの内陸にあったのでしょうね。
by 駅員3 (2009-07-15 10:57) 

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