下北半島 [物語]
襤褸について再び
先日の月曜日11月2日浅草は二天門脇にオープンしたアミューズ ミュージアムに出かけて来た。青森は下北半島に生まれた民俗学者の田中忠三郎さんのお話をききたかったからだ。
現在75歳の忠三郎さん、学者と言うよりは朴訥で芯に激しい情熱家の印象だった。生前お会いした棟方志功さんの印象と近い。子供の頃から畑で縄文の土器のかけらを拾うのが大好きだったそうだ。下北アイヌの調査や縄文遺跡。津軽海峡はアイヌの人達が「しょっぱい河」と呼び、北海道との同じ文化圏に下北もあったようだ。以前千歳に向う飛行機から見た斧の様な形の下北半島は森のデパートのような豊かな緑があったようだ。森に行けば生活が守られるそんな縄文時代の光景を思い浮かべながら、田中少年は縄文の人々はどんな衣服を着ていたかに興味が移って行ったそうだ。いや当時の人々の生きた憶いに近づきたかったのだろう。
縄文での生活から 江戸から明治〜昭和にいたる衣服や民具を3万点も収集し保存する事に生涯を捧げていると言う。なかでも収集した時にまつわる古老達の話や人々の話が圧倒的に面白く聞く事が出来た。
「襤褸は貧しい生活から生まれたものではない」
下北から対岸の津軽では江戸の中期以降急速に米作りが発展普及し、それに伴い衣料の木綿も大量に交易で普及したが、下北では雑穀が主体の畑が殆どで衣服も麻を中心の生活が昭和初期迄続き、下北では木綿が非常に貴重なものであったと言う。ものを大事にする心が、襤褸を生み出したと田中さんは言う。
襤褸の一つとして「糞掃衣」(ふんぞうえ)という言葉があった。
「坊主にくけりゃ袈裟まで・・・」などといわれる、この袈裟のことである。
この袈裟のことを、最高の形で言い表されたものが糞掃衣である。
足るを知る者は富むという。
人のうち捨てたモノを拾って活かすという精神は、もともと仏道のものである。
着られなくなった衣類は、最後に糞を拭いて捨てるしか役に立たない。
そうした糞掃衣を拾い集め、自分で丁寧に洗濯をした上で重ねて縫い合わせ、
僧の身につけたのが輪袈裟の由来である。
黄色なのは糞の色を象徴したものである。襤褸には仏教的なリンクがあった。
画像は浅草風神雷神門の大提灯から
布の切れ端が三センチ四方あれば大事にしたという。その布は祖母や母から嫁に伝えられた。お産の際に使われる布が祖母や曾祖母の代から継ぎを当てて使われていたことを聞いた時には驚いた。布をいとおしく思う気持ちが、曾祖母や祖母の匂いと共に記憶される装置として使われて来たのだ。衛生的に現在なら処分されるはずの布は、当時は大窯で煮沸消毒したそうだ。
一瞬イヌイットと呼ばれるアラスカ海の北方民族の名前の付け方を思いだしていた。
彼等は子供が生まれると、名前を付けるのにずっと昔の先祖からの名前が連なり曾祖母の名、祖母の名、母の名、自分の名と随分長い名前になってしまうそうだ。先祖の記憶が名前と言う身近なところにつけられる文化に、襤褸との共通点を感じた。
そして田中さんが言われた、下北では「タベト」と呼ぶ旅人が訪れた時の歓迎の仕方にイヌイットとの共通性を又見つけて驚いた。旅人は他の地からの情報をもたらす貴重な人々であった。特に縫い針等を商う商人は最も歓迎された。針は針仕事のためには貴重な道具で、針供養や海彦山彦の釣り針の話迄大事なものだった。夕食で歓迎したあと泊まってもらった旅人には
家の女性や、妻迄も一夜の提供があったという。イヌイットの民族でも一夜妻の提供の話は出てくる。北方の人々ならではのやさしさの表現なのだろうか。勿論女性達は了解の上で拒否する選択も出来たと言うのだが。
襤褸にまつわる話まだまだあるのですが今回はこの辺で
二天門のミュージアムは青森出身の芸能プロダクション会長の提案で始まったという。
墨田タワーの建設途中の姿も望める不思議な空間だった。
2009-11-05 10:02
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コメント(7)
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素敵なお話しを聞かせていただきました。
とても興味深いお話しのゆうでしたね。
私も聞きたくなりました。
昔の人々の息吹を感じ、その生活を想像するのは、単に懐古趣味なのではなく、過去を振り返る事で未来に繋がって行くのでしょうね
by 駅員3 (2009-11-05 20:20)
ご訪問ありがとうございました。東京スカイツリー結構出来てるんですね?
by chal (2009-11-05 22:13)
>旅人は他の地からの情報をもたらす貴重な人々であった
私が子供の頃、北海道の村ではテレビを持っている家は殆ど無く、行商のおばさん、富山の薬屋さんなどがたまにやってくると、ちょっとした情報を提供してくれるようでした。勿論新聞はありましたが、新聞に書かれることは限られますから。また、当時、北海道の新聞のニュースが内地よりも遅れて届いたらしいと言うのも聞いたことがあります。確かめたことはありませんが。
by アヨアン・イゴカー (2009-11-06 00:06)
駅員3さん
東京駅の歴史も拝見していると
見えないものから見えてくるものを感じますね
未来が昨日よりも夢に満ちた世界である事を
信じられる今日であるように願ってます
過去には未来への種子がたくさん埋まっているんですね
by SILENT (2009-11-06 08:04)
chalさん
コメント有難うございました
墨田タワーでなくて 東京スカイツリーなんでしたね
東京タワーと同じように タワーの名前は漢字や地名にして欲しかったですね
by SILENT (2009-11-06 08:06)
アヨアン・イゴカーさん
昨年2週間程海外に出かけていて帰ってから2週間前の情報を読むと不思議な気がしました。旅人やゴゼさん達が運んだ情報は週刊誌や月刊誌の情報に近いものでかなり情報が濾過されたり加工された状態だったんでしょうね。今はリアルタイムの世界、旅人や手紙が持っていた熱い情報や人々の憶い、大切だと思います。
by SILENT (2009-11-06 08:13)
初めまして ご訪問有り難う御座いました。
興味深いお話、拝見させて頂きました。
物を大切に これからは本当に色々と大切にしないと。ですね。
東京スカイツリー。
東京タワーより大きいのでしたね、東京タワーどうなってしまうのかな?
by m* (2009-11-06 09:28)