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50年前の左義長の下町 [祭]

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50年前の大磯は下町の左義長の光景。(資料は大磯町郷土資料館提供の印刷物から)
昭和30年代の下町の左義長の光景から見えて来るもの。遠くに高麗山が見えている。この山のかたちは今も変わらない。しかし黒松の樹影は当時は結構多かったようだが。この写真では定かではない。注目すべきなのは中央に写るオカリヤの小屋が木造である事。木の羽目板が当時の杉板を貼ったものに見えるが、この外壁は今でも町の古い家で見かける。オカリヤの原型は藁で作ったようだが(大磯町国府地域では今も藁で作られている)、大磯の下町では木造に変わっている。理由は大火が何度も下町で起こったせいなのだろう。古くは江戸の町でもドンド焼が行われていたようだが、城下内では火災の原因になると禁止令が出たようだ。この町では左義長のクライマックスの火祭りが海岸の広いスペースで行われるので持続出来たのだろう。しかし雪国の広いスペースがある場所や海岸地帯にドンド焼が今も残っているわけではない。この町では何か深い絆が祭りを続けていく原点になっている気配を感じる。50年前の写真に写る 白い割烹着の女性たちと手拭いのホオカムリの姿、手前の女性が肩に担ぐ棒の下には何が運ばれていたのだろう。赤い服を着た子供達は女の子か。打ち込まれ中央に年季が入った太鼓の革がかわいい。真新しく張り替えた白い障子の縁側が見える右手の家は縁側に腰掛けて漁の話や今年一年お抱負を語る人々がいたのだろう。路地が活気を帯び、井戸端会議も盛んだった時代が見える。その影にねんねこ半纏を着て子供をあやす若い女性の姿も見える。昭和30年代とは二階建ての家も全国では多かったのだろうか。大磯では海水浴客を夏場に迎え、貸し部屋や 貸家にする家が多く二階建ての普及も高かったそうだが。当時は電線のかずも少なく空が広く見える。トランスや看板にも30年代の雰囲気が濃厚だ。何よりも舗装されていない道路が懐かしい。中央に大きく竹の飾りが見えるのは「オンべタケ」御幣竹の意味だろう。吹き流しが飾られ紙で作った様々な吉祥のかたちが付けられている。提灯は祭灯としてナナトコマイリには欠かせない要素だ。
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平成23年現在の50年前に撮られた場所に立ち撮影したもの。舗装された道路を子供達が自転車で走り去っていく。頭上には集落の境に作られる「ミチキリ」と呼ばれる結界が下がる。ミチキリの中央に下げられているのは 大根で作られた賽子(さいころ)が先になった矢のかたち。このかたちは房総半島でもみられるようだが、漁師町の下町には似合う。
賽子は漁師の船魂さまにも使われる事と関連かもししれない。古老に聞いても「昔からの習わしだ」と潔い解答。祭りや神事を詮索する野暮な事はやめておこう。
でも白い矢のミチキリに 赤い矢のミチキリ 潔くて好きです。

道きりは一天地六ぞ漁師町 SILENT
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2011年昼下がりの下町の正月


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コメント 3

駅員3

50年前…っていうと、昭和30年代ですね[ひらめき]
この頃のお母さんの制服は、割烹着に日本手拭いを頭に被った姿が定番でしたね[ぴかぴか(新しい)]
by 駅員3 (2011-01-14 11:22) 

海を渡る

左の電信柱とその向こうの木は同じ位置のようですね。
母もこのように割烹着だったですね。
懐かしい風景です。
by 海を渡る (2011-01-14 13:07) 

Silvermac

割烹着、母のイメージです。
by Silvermac (2011-01-14 15:37) 

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