1999 [アート]
1999年か1998年の春の事だったと思う。前回バス停で知り合ったインド人の青年SE.(コンピュータのシステムエンジニア)の結婚式の招待状に、息子が行くことになった。インドの春は季節も良いという事で、成田からムンバイへ空路を選んだ。ムンバイから南インドの空港迄、息子は乗り継ぎ、彼の生地の街へバスの旅を続けたという。結婚式は祝宴が何日か続き、大きなバナナの葉の上に並べられた料理を味わったと、、、後から息子に聞いた。息子は其の地で暫く過ごし、海迄オートバイで洋服の仕立てをしている、インドの青年の父親に乗せていってもらったという。三階建ての家に住む十数人の家族の家にも厄介になったのかも知れない。その後1年程息子は南インドから中央を経て北のインド迄息子は旅を続ける。息子の印象ではインドは、一つの国ではないという。様々な部族、様々な暮らし、宗教もあって、外から見るインドとは違うという事なのだろう。其の頃かテレビの番組で、インドのあるマハラジャの女性の一人を取材した番組が印象に残っている。女性はマハラジャの末裔で今も大きな荒れ果てた屋敷に住んでいるという。取材の応じる日には、彼女は門の守衛を雇ったという。かっては豊かな生活をしていたであろう彼女の、プライドと人間性を見て心打たれるものがあった。威厳のある横顔と寂しげな眼差しが、ITビジネスで成功をする時代の波に乗ったマハラジャ達とは対照的に写ったのだ。
放浪の途中、息子から一枚のスケッチが送られて来た。インドの高原か、緑の芽吹きに老木の身体が生命力を持って大地にしがみつくように根を張る光景だ。大地は地球という星の一画であることでいいかのように、名も名乗らず、ただ其所にあるだけだ。
息子からの便りは三ヶ月に一度程はあったのだろうか。便りは段々少なくなっていったのだが。差し出された消印や、手紙の中身からインドの地図を広げ、日付と彼が移動したであろう軌跡を地図にマーカーで書き込んだ。
当時は携帯電話もインターネットも普及していなかった。パソコン通信で探し出す現地のデータと、新聞でのインド関連の記事がとても見直に感じられた。検索する場所はインドの北、ヒマラヤの高地に移動していった。
あれから12年が経った。結婚式を終えたインドの青年は日本に奥さんを連れてやってきた。奥さんを紹介され、子供も日本で生まれ、彼は子供の名に「四季」を意味する名前をつけたという。彼との消息ここ5年程していなかったが、数日前ネットの検索で彼の名と顔写真、勤務先の会社などがわかった。インターネット恐るべしと言う事なのだろうか。
インドに住み着いてしまうのではないかと心配していた息子は、暮も押し迫ったある日、ひょっこり帰国した。チベットのある街で見た町中が、蠟燭の明かりを灯す祭りを見て、日本への郷愁が湧いたのだという。祭りは人間の魂を大きく揺さぶる力があるのだろう。まずは一安心の年だった。
2012-04-16 08:51
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コメント(2)
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沖縄の結婚式も、ここまでではありませんが、多少にたところはありますね!
by 駅員3 (2012-04-16 12:31)
印度は奥が深いですね。
by Silvermac (2012-04-16 22:14)