SSブログ

1975 [アート]

IMG_0417.jpg
1975年東京パレスビルにあったサントリー美術館は、赤坂見附にあるサントリービルの中に移ったという。同年の9月に版画家棟方志功は亡くなっている。当時都内に勤務していた私は、赤坂見附にあるサントリー美術館の「津軽」という企画展を訪れた。津軽地方のこぎん刺しや、津軽塗が硝子ケースの中に展示されていた。
静かな展示会場に、いきなり賑やかな集団がやって来た。中央の小柄な男性は牛乳瓶の底のようなレンズの黒縁メガネをかけている。訛りのある大きな声の話し方で隣りの館長のような黒いスーツの男性に猛烈に話しかけている。内容は、硝子ケースの中にある展示物は、自分が小さい頃は身の回りにあったり身近に感じていたのに立派な美術館の硝子の中の展示物になっているのは、有難い事だ。本当に!。といったニュアンスに聴こえて来た。その当時私は27歳、棟方志功とはどんな人物か知らなかった。
IMG_0453.jpg
美術館の講義室で、棟方志功さんのお話と題した案内があり、その場で申し込んだ。部屋には30人程が入っただろうか。青森という地域の歴史と、生い立ちから
話は始まった。縄文のこと。ネブタの事。はねる祭りの仕草。身体と声が一体化しておおきなうねりのある話だった。小さなとき親は鍛冶屋で、志向に冗談で「燃える鉄を、お前はつかむ事は出来ねーだろ」と言われ、意地でもつかもうとして親を驚かせた事。小学校に入り目が極度の近眼だった志向。二枚羽の飛行機の曲芸を見せに来た時に、授業を止めて皆教室から飛び出し、飛行機の姿を追いかけた子供達に追いつけずに、田圃の畦道で転んだそうだ。その時眼前に広がっていた光景を棟方志功は、思い出すかの様に黒板にチョークで描き始めた。何が描かれたかはわからなかった。
IMG_0452.jpg
勢い良く描かれた光景は田んぼの中の可憐な、オモダカと言う花だった。武士の家紋や兜に意匠として使われる、力強い葉のかたちと対照的な、水玉状の花である事をあとから知った。志向はこの花を目の前に見て「何と言う美しい花だろう」と飛行機や仲間を忘れて見つめていたという。この花が自分が絵描きになりたいという最初の動機になりましたと。
IMG_0420.jpg
赤坂見附の美術館で志向の話を聞いた感動は、すぐさま鎌倉にあった彼のアトリエに出かけていきたい衝動にかわれた。愛する、ちやさんという奥様の話も出て来た。東京に来て弟子入りした日本画家の先生に、自分の鯉の絵を見せると、鱗の数が正しく描けていないと、即座に入門させてくれなかったこと。借家のトイレの扉の裏に、思わず鯉の絵を筆で描き込み、大家さんに大目玉を食らった事。ニューヨークの猪熊源一郎画伯は大の友人で、其のときしていた赤い渦巻きの柄のネクタイは彼から貰った事。天真爛漫に語る棟方志功が、出会ってから三ヶ月程で亡くなっていたとは。1975年という年が今鮮明になりかけているのはネットでの検索のおかげなのだが。IMG_0442.jpg
IMG_0413.jpg
そういえば高校生の版画の授業で、志向の十大弟子の一人を彫る女性がいた。其の作者が棟方志功とは後から知った。京橋の国際版画トリエンナーレ展で、当時売れっ子になった池田満寿夫と共に、大御所になりかけた棟方版画もあった事をあとから思い出した。IMG_0411.jpg
nice!(15)  コメント(2)  トラックバック(0) 

nice! 15

コメント 2

寂光

おはようございます。
力強い光が花びらの姿かたちを浮かび上がらせています。

古い記憶、
鮮明に浮かび上がるのは、
その経験や体験に対し真摯に接してきたからでしょうか。
私は日々仕事や日常の雑事に追われ、
古い記憶が鮮明に浮かび上がってきません。
もしかすると記憶に残るような場面に出会っていないのでしょうか。
by 寂光 (2012-04-19 06:40) 

SILENT

寂光さん
朝ショックな事がありました。
食卓の「イチゴ」を、林檎と誤認識しました。非常に危険な兆候です。今現在より過去を重視している自分を発見したから。
その時、真摯で素直に記憶できたことには、感謝しなければと思います。ありがとうございます。
by SILENT (2012-04-19 07:33) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

19961953 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。