1953 [文字]
1953年5歳の私は、文字が書けるようになっていたのだろうか。最初に書いた文字はなんという字であったのか記憶にない。多分ひらがなであり、自分の名前か、「あ」であったのではないか。最初の文字は声に出しながら書いたのではないのだろうか。祖母は文字が読めないので小学校に入った私が、新聞を読むのを楽しみにしていた。文字は書く事と、読む事、見る事の、3つの動作があったのだ。子供が最初に書く文字は左右が反対にひっくり返っている事が多い。視覚的に見たものを脳がひっくり返して認識しているのだろうか。興味深いところだ。ある児童作家の本の中に、明朝体の止めの部分だけを書く子供が登場し、面白く思った。文字の中で強調して書かれる最後の止めの部分が、その子には強烈に記憶されているのだろう。明朝体の横線は繊細な程確かに細い。
漢字が読めるようになる前に、漢字に振られたルビを読むのが面白かった経験がある。その総てにルビがある本が経本だった。仏壇の脇に置かれた経本を広げ、お輪を軽く叩き、ルビを読み上げる。唱うようにお経の文句をあげるのは、僧侶の読経が唄に近いと、子供心に感じたからだ。大人達はそんな自分を見て、感心した子供だと密かに言うのを内心嬉しく思った。文字は唄のように読み上げるという事を知り、後に朗読、黙読、子供への本の読み聞かせと繋がっていった。
読み上げたものを、逆に書くという作業で、それは漢字がふさわしいのか、ひらがなか、カタカナかと悩むときがある。漢字には漢字の思いと、その場での書体や、配列での印象が大きく違って来る。
品がある書とは 其のまわりの空間が生きている事だという話がある。
空間を広くとった文字は確かに品がある。何が書かれているかは近づかないと認識出来ない。か弱い書体が好きだたが。
空間を埋め尽くすような書体は、目に迫って来る。江戸文字もこの仲間なのだろう
。ひらがなが空間を漂うのに対し、江戸文字や勘亭流の文字は存在感が強い。
ネガとポジの関係のようだ。文字の地の部分と、文字との関係も面白い。
街に出ると看板が気になる。手書きの文字が何故か好きなのだが、最近はコンピュータで作られた平面的な文字が多い。文字は手作りに限ると思うのだが。
美しい書体の文字に出会うと、こちらの背筋迄延びて来る。
文字は書き手の心を、充分に伝えてくれるものだと思う。
心が流れ出した軌跡のように。
いつか中央線の駅から見た文字のある光景
甲斐駒ケ岳と富士山の姿を背景に
2012-04-19 13:11
nice!(17)
コメント(1)
トラックバック(0)
歌舞伎や相撲の文字は確かに目立ちますね。
by Silvermac (2012-04-20 06:54)