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1971 [世界]

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1971年初版本の「富士」武田泰淳著を久しぶりに開いた。エピローグに『神の餌』と題した部分が好きだ。文中リスと鼠についての考察が書かれ、リスに餌を与える「神」になど私はなりたくないと、この私は言う。だが、それはただ口さきでそう言うだけであって、当の本人の本心は、果たしてそうなのであろうか。私の一生を通じて、私は「神になりたい、神になった」と願ったり自覚した事が一回もなかったと断言出来るのだろうか。あるいは、今の今、まごうかたなき神様のご命令によって発言し行動しているのだという、理解出来がたい一瞬の光に包まれた事が、絶対になかったといいきれるだろうか。中略、、、あるいはまた、長い間餌を与えて飼いならしてきた小鳥が、まったくこちらを信頼しきって手のひらにのっているとき、五本の指を握りしめて殺してしまうことも、放してやる事も出来るという身震いするような感覚に襲われたことがなかったかと、言えるものかどうか。

この本は『神の指』という終章で結ばれている。精神世界の人間と生命体との物語なのだろうか。先日尋ねた三島大社で金網の向こう側に神鹿がいた。耳を立て気配を感じている彼の聴こうとしているものは何なのだろうか。1971年昭和46年のこの本には43年分の世界の埃がうっすら層になっている。この年成田空港公団、第一次強制代執行を開始。沖縄返還協定調印。住友石炭鉱業、北海道の二鉱山閉山、炭坑の閉山あいつぐ。

炭坑の閉山で失業した人々はどこへいったのだろうか。原発の関連作業や、IT製造の現場へも多く従事されたという話を聞いたが、脱原発、IT家電、車産業の後に来る時代とはどんな波なのだろうか。

新聞に絶滅危惧種の動物達が載っていた。人間が絶滅認定の事柄を述べるのは、失なわれた少数民族や、絶滅産業の名よりもニュース性が高いからだろう。滅びさるものと新たに誕生するものとの関係が最近妙に気になる。滅びも一瞬の間ではなく長い年月で行われ、誕生にも長い時間が必要なのだと感じる。
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神の猫という存在はあるのだろうか。エジプトの古代の猫の姿を思い浮かべた。
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静岡県三島大社境内にて
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三島大社から三島駅に向かう途中の川の流れ
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青い
血管を流れる
冷たい

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御殿場線に乗り、富士の裾野を展望出来た
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夏草が走る
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桑の木のそよぐ光景は夏
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走る雲
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足柄古道が遠望できる御殿場線からの車窓光景
右手に足柄山、矢倉岳、左手に金時山その間を足柄古道は抜ける。
東山北付近からの光景
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tree2

福を運んでくる猫はいるようです。漱石は野良猫を飼うことにしてから運が向き、小説家として有名になったと、何かで読んだ記憶があります。
明治村にある漱石の旧居では、今も座布団の上で猫が寝ています。

招き猫って、もしかしたら神様?
by tree2 (2012-08-31 00:40) 

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