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2000 [写真]

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2000年に発行された『まなざしの記憶ーだれかの傍らで 植田正治/鷲田清一』さんの本がある。この夏突然逝かれた植田正治さんの傍らに、鷲田清一さんの文章を添えるかたちで作られた本だと言う。
その中で好きな頁がある、花束を持つ学生服の少年が満面の笑みをたたえて立っている写真だ。遥か遠く迄畑が続き一本の田舎の路らしい光景が背景にある。少年が両手に抱えるように持っている花は満開の山桜の木だ。この写真に鷲田さんの『花束』という文が続く。
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海辺で出会った紅い服の少女は花束の様にも見えたので
以下引用させていただきました。

『花を贈る』花を贈る。花を添える。旅立ちの日に。
 そう卒業して世の中に出てゆく人、家を出ていく人、死して此の世を去る人に、そして墓に眠る人に。
去る人、送る人、ひとはいのちをつないでゆく。残るひとは去るひとに、餞に言葉を贈る。花を贈る。ご苦労様でした。安らかに眠れ、と。あるいは長い途、幸多くあれ、と。
 誰一人もが望むもの、それは自分という存在が祝福されてあることだ。おまえなんかいてもいなくてもいいという顔をされるほど、辛いこと、悲しいことはない。中略 
花には、華やぎがある。
妖しさがある。
濡れがある。熟れがある。
棘がある。毒がある。
迷いがある。狂いがある。
生きとし生けるもののいのちの悶えが、そっくり映されている。
が、花は散る。花は枯れる。そして落つ。ここにもまたいのちの定めが
くっきり映されている。
だから花を贈るというのは、やがて咲くこと、やがて萎むことも全部ひっくるめて、いのちのしるしを贈ることなのだろう。祝福はまたほろ苦いものでもある。
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紅い少女は海にひたすら祈りを捧げていた
満面の笑みでこちらを振り向いた彼女は、アカンベーをした。
今日の浜辺には少女の姿はみえなかった。
祈りを受けとめたかのような、海だけがある。
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コメント 4

cafelamama

植田正治氏の花束を抱えた少年の写真、記憶にあります。
花束を贈るにはいろんな意味がありますね。
by cafelamama (2012-10-25 18:52) 

Silvermac

植田正治の訃報は知りませんでした。鳥取の記念館を訪れたことがあります。
by Silvermac (2012-10-26 06:00) 

tree2

植田正治先生、懐かしいなあ。とても素敵な、そして可愛い方でした。
花を抱えた少年の写真は「童暦」の中の1枚ですね。
写真雑誌の扉で、植田先生のテーブルフォトに拙文を添えさせていただいたことがあります。建築家の手になる植田邸のリビングは、光が燦々とあふれ、テーブルフォトの素材が集められていました。リビング自体、しゃれた作品のようでした。
連載の1年間は楽しかった。植田先生と、もっと仕事したかった。
by tree2 (2012-10-26 12:09) 

SILENT

cafelamamaさま
退職祝いには、ものが残ると嫌なので、記念品は総て花束でいただきました。結婚祝いに男の友人から大きな薔薇の花束をもらったときには、せこく冷凍庫に何本かしまいました。
Silvermacさま、駅から歩いて植田正治美術館迄行きました。大雪山に雪があって、思いで深い旅でした。
treeさま
昔、銀座の小柳画廊で出会った素敵な老人、後から、モダンな会話で植田さんであったと気がつきました。展示は、ルーシーリーでした。
by SILENT (2012-10-26 13:39) 

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