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1889 [旅]

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明治22年11月21日午後2時36分新橋駅発の汽車で、正岡子規(22歳)は大磯に向かった。「此日や天朗に氣清く紅葉野に満ちて晒錦の如し。夕陽傾く頃大磯につきぬ」と『四日大尽草稿』にある。此の日より大磯に三泊し、宿泊先の松林館で、高崎出身の主人にお大尽並みの待遇を受けている。その滞在中に、「高麗神社の横手に出でたり、社前に『高麗神社』とゑれる(彫られた)石は大きな凹み小さな凹み相雑りて其凹みの形は真圓く不思議なる石だ』と描かれる。それから123年後の今も「高麗神社」の石碑はあるのだが、麗の字がおかしい。明らかに手を加えられている。子規が訪れてから、8年後の明治30年、高麗神社は高来神社と改名された為であろう。高麗の麗から、高来の来へと文字は変えられた。その訳は何なのだろう。高麗山は江戸時代は家康の権現信仰の聖地であった。古くは伊豆山権現、箱根權現、高麗山権現の三社権現を発生させた元社でもあったという。高麗からの渡来人達によって開かれた土地でもあるという。渡来人は、百済の人々、高麗の人々と同じ半島でも国が違う人達が渡来しているそうだ。
子規の記述の表面に大小の凹めんがある石とは、海中にあって既成する石や岩の表面だ。関東大震災ではここらの海岸が人の身長ほどの高さ隆起したという。海中にあった岩や石が多く露出したという。子規が見た岩はその大地震の前のものであり、附近の海岸から運ばれたものであろう。ならばこの石も大地震の時の海底から海上に姿をあらわした時に運ばれたものであろうか。興味が尽きない。アオバトが訪れる海岸線の岩場は皆此の岩のような形状で、誰かがアオバトのコップと呼んでいた。

緑鳩の洋盃はのこり秋の海   SILENT

あおばとのこっぷはのこりあきのうみ

今アオバト達は秋になり、渡り鳥となって西に進み、京都の御所の中の公園で、団栗の実をついばんで冬越しをするという。京都御所のアオバトがどこからくるのかは判らないが、北海道小樽で観察されるアオバトは越冬はどこでするのであろうか。津軽海峡を超え関西方面迄飛来するのだろうか。11月から翌年4月の初め迄アオバトたちはこの湘南大磯の海岸からも姿を隠す。12月のある朝町の山手でアオバトの聲を聞いたことがある。もしかして小樽からやってきた越冬の鳩だったのだろうか。それとも暖冬で西に行かず居残ったアオバトの鳴き声だったのだろうか。おそらく後者であるのだろうが。アオバトの名称は鳴き声から来たという話が有力です。

低音のあおーあおーと秋の声 SILENT

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正岡子規が書いた、四日大尽には大磯を訪れた時の様子がよく書かれている。その当時の彼が行動した道を大磯駅から辿ってみたいと前から思っていた。駅から松林館という海岸の宿迄、どのような道を辿ったのか、当時あった道を再現しながら、歩くのは楽しいものになりそうだ。凡そ百年の間に道はかなり変わっている。当時あった建物や、記録された場所や店から子規が来た日に逢わせ歩いてみたいと思っている。人力車を子規はこの町で使ったのだろうか。風呂敷包みに杖と菅笠を持って写した当時の子規の姿を思い出した。東京から大船辺り迄、徒歩旅行をした彼は、明治25年の大磯再訪では箱根路を駕篭に乗って超えて三島迄行き、修善寺迄馬車に乗ったという記載もある。何か時間の流れが優雅で、埃っぽい光景だろうが空は何処迄も高かったような思いが浮かぶ。
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チリ紙や紙箱のまわりを包む秋の日射しが温かな色合いだ。
白秋のちろちろとした微火がみえて来る。
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来年は巳年、今年は辰年だったが、障子の龍の補強紙も色褪せてきている。
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障子は季語が冬だったような。
日射しを受け柔らかな光を、室内に広げる障子の力は好きだ。
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卵のコレクションは、石、硝子、陶磁器、木製様々にあるが、これは南米のヘタマイトだっただろうか。黒塗りの漆器によく似あう。
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tree2

旅は不自由な方がいいですね。
とんでもないことに、東方見聞録に憧れる私です。
by tree2 (2012-11-07 14:51) 

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