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如是我聞 [言葉]

釈迦が弟子の阿難に、経典の冒頭に冠させた言葉という。『このように私は聞いた』如是我聞と。
釈迦の教えを信じ、それを固く保つ意味を含む、という。
「このように見た」でなく、「このように聞いた」なのだろうか。
教えは、聞く事を記録する事はできたが、見た事を記録する事ができない時代だったからだろうか。
聴く事と、観る事の違いには深いものがありそうだ。
絵から何かを聴き、音楽から何かが見えてくるという関係はよくわかる。
如是我聞とは、誰が語り、誰が聴いたのかを意味するのだろう。教えを語るのは釈迦で、阿難が聴いたという事か。仏の教えを釈迦が聴いたという事か。教えの総てと、聞いた事の総ては一致するのか。
其所に漏れているものこそこそが、大切なものという解釈もあるのではと、ふと思った。
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昔のラムネ菓子の木型だという。同じものが二つ合わさりその間にラムネの素を押し込み型を外して、
蛸の様なかたちのラムネ菓子が生まれるのだろう。色とりどりのセロファン紙で包んだのだろうか。
如是我聞、鍵盤のような型から生まれる言葉は、雌型と雄型の関係を連想した。
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人の親指大の大きさの、御仏の脚先。いかなる事によって足先だけの残欠が我が手元にやってきたのだろうか。その変遷はちいさな指先だけが知っている。
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ブロンズでできた水牛の見つめる先と、聞くものは。
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梅雨空の重しを受けし水の倉
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ズッキーニとあいほんの夏最中
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電線を雲の炎が夏へゆく
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行水の花の背中の色気かな

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コメント 4

SILENT

http://www.asj.gr.jp/qanda/answer/119.htmlより
引用させていただきました。本場中国の聞くと、聴くの意味は、日本とは反対でした。

「聴く」と「聞く」は英語の「listening」と「hearing」の違いに似ていると言う説明を聞いたことがあります。
厳密な意味での正否については定かでありませんが,日常的な音感覚を考えたとき,日本語の「聴く」と「聞く」とにはもっと深い意味の差異があるように感じられます。
漢字のルーツである中国の漢の時代に遡ると「聞」と「聴」の違いを垣間見ることができます。中国では,隔たりを通して耳にするのが「聞」であり,まともに耳に入るのが「聴」であると区別して使い分けているようです。伝聞・風聞・外聞・内聞などに対して傾聴,拝聴,盗聴,吹聴…。これらの熟語について,「聞」と「聴」を入れ違えると不自然に感じられます。紀元前6世紀,漢の時代に編纂された「論語」に「是聞也,非達也(是れ聞なり,達に非ず)」の記述があり,また「聴其言而信其行(其の言を聴きて其の行いを信ず)」,と言うように「聞」と「聴」が区別して使われています。「聴覚」と言うけれど「聞覚」とは言いません。「聴診器」であって「聞診器」ではありません。一般に心理的な音表現では「聞」が使われ,生理的な音表現では「聴」が使われているようにも感じられます。論語に並ぶ中国の古書に「大学」があります。その中の一文に「心ここにあらざれば,視れども見えず,聴けども聞えず,食らえども其の味を知らず。」の一文があり,「聴く」と「聞く」,更に「視る」と「見る」には明確な差異があることを知ることができます。
by SILENT (2013-07-05 09:42) 

SILENT

斗夢さま
20000niceアクセス本当にありがとうございます。
by SILENT (2013-07-05 15:03) 

sig

上記の「聴く」と「聞く」のお話は、とてもためになりました。
昔のディズニーの音楽映画「ファンタジア」は、「目で見る音楽、耳で聴く映像」というキャッチフレーズでした。
by sig (2013-07-05 22:03) 

SILENT

sigさま
ファンタジアの中国版では、「眼で見る音楽、耳で聞く映像」となるのでしょうか。ややこしいですねー。
by SILENT (2013-07-05 22:48) 

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