SSブログ

屏東 [旅]

台湾の高雄の駅から、列車に乗って屏東迄出かけたのは2014年8月23日の事だったろうか。列車は懐かしいツードアーの客車、進行方向に二人懸座席が並ぶ懐かしい列車だった。高雄の駅も終着駅の屏東も駅周辺は工事の最中。大きな駅ビルや拡張工事が進行中。月台と描かれたプラットホームが何故か人も少なく心休まる光景。紅い列車や、蒼い列車が彼方に泊まっているのが見える。屏東は、ピントンと発音するらしい。台湾で最も南の県が、屏東県だそうだ。高雄からは東に山の麓の街が屏東駅のようだ。列車で1時間弱のどかな車窓の旅を楽しんだ。
R0131338.jpg
列車内の座席の前列に母子の姿があり、小さな男の子が恥ずかしそうに座席の上から顔を出す。小さな手と悲鳴の様な高い声まあ可愛いから辛抱するか。
R0128260.jpg
いないいないばあ!
R0128258.jpg
懐かしい座席前のネット
R0128253.jpg
途中と待った駅にはホームに鉢植えのかなり大きな木が置かれていた。
R0128257.jpg
大きな川を渡り、古い鉄橋が目に入り気になる
R0128273.jpg
途中で古い鉄橋は途切れているのが印象に残る
R0128277.jpg
後からネットで鉄橋の由来が判った
R0128279.jpg
此の子が見た、50年後の車窓風景はどうなっているのか妙に気になる。
昔の鉄橋の出来た頃の話がネットにあった。以下引用ウイキより。

今から百年前の、1911年初頭、高雄港での軍事物資と人員の輸送増加、屏東平原で生産された砂糖製品の輸送の増加、平原上の豊富な生産物の開拓のため、台湾総督府は鉄橋の建設を開始した。

高屏渓の川幅は広く流れも急であり、建設は難航を極めた。しかし阿猴城(現屏東市)の人口や商業交易規模が拡大し、さらに製糖工場の規模と生産量が相当なものであったことから、総督府は早急な建設を促した。

こうして鉄橋は台湾総督府の日本人技師飯田豊二が策定した工期を3年とする計画の下、1913年末に竣工した。総工費は当時の金額で130万円あまりであった。工事期間中、何度も豪雨や増水に見舞われ、飯田は疲労の蓄積から病に倒れてしまい、鉄橋の完成を目前にした1913年6月10日、台南医院でこの世を去った。友人の小山三郎らによって遺墨が作られ、九曲堂駅横に埋められるとともに、資金を集めて記念碑が建立された。

1913年12月20日、阿猴駅(現屏東駅)と九曲堂駅の間が開通し、翌1914年2月15日には打狗駅(現高雄港駅)までが正式に開通した。当時の台湾総督である佐久間左馬太が出席している。
R0128311.jpg
百年の時の流れを車窓の外に見た

nice!(27)  コメント(2)  トラックバック(0) 

nice! 27

コメント 2

k_iga

アジアの地方は高層建築物が無いので、ずーっと列車が走って行くのが
見えるのが好きです。
by k_iga (2014-10-29 01:42) 

sig

台湾には昔の日本の姿かたちをまだ見ることができると聞いたことがあります。50年の日本統治ですか。台湾が親日的と言われることは嬉しいです。
by sig (2014-11-05 08:55) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

神話新宿 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。