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二月二十五日 [アート]

東海道線を大磯の駅で降りて、小田原方面に線路沿いの坂を下りていくと、左手に大磯小学校の門が見えてくる。この線路際の道は海際の伊藤博文邸へと開発された道で、朝鮮統監となった博文にちなみ、統監道と呼ばれたらしい。そのまま線路沿いに数分歩くと富士見橋という小さな橋を渡る。その先の左手の路地に入り十数メートルの左手の角に、旧島崎藤村邸がある。昭和初期の別荘建築で、お茶室が設けられた風情のある借家だったという。そう戦前の都内に住んだ文豪達の多くも借家住まいが当たり前だった。一般人も借家や間借りは当たり前だった時代だ。
昭和16年1月14日の晩に、大磯大内館に宿泊し、夕方左義長の火祭りを見た島崎藤村はこの町に住もうと決めたという。故郷馬籠の道祖神祭りの火の光景を思い出していたのだろうか。69歳の藤村は大磯町東小磯八十八番地のこの別荘を借り、翌年8月には買い取ることにしたという。付近に数件の同じような和菓子屋所有の別荘があり、隣組の住人たちは鉄道員や職人、八百屋など下町の顔ぶれといった人たちが多かった。質素を好む文豪にはお似合いの環境だったのだろう。今も残る竹垣の中の作家の家は、ひっそりと保存されている。人力車が一台通り抜けられるだけの路地は静かな趣が今現在もある。統監道へ戻り山手に向かう線路の下をくぐる地下道に「夢のちかみち」というなの立て看板があった。ちかみちは、近道と地下道をかけているのだろう。地下道の歩行者用の階段が、虹色にペンキ塗りされていたのだろうが剥げ落ちて、根来塗りの風情を見せている。
数十年の歳月が、地下の階段にまで及んでいる光景、なぜかレトロで好きなのです。
二月二十四日.jpg
昭和5年大磯相模漁業会社、鰤5,000尾、一尾四円五十銭で仕切り。
昭和10年全国90歳以上の高齢者に真綿一包宛下賜、大磯3名、国府1名。
現在の百歳以上の人口は3万人を超えるのだろうか。今百歳を超える人々は、昭和10年当時、25歳前後だった。どうでもいいことだが寿命とは何か、人の一生を思う。平成27年の今日、曇り室温15度。一昨日は春のような気温で体調変化に油断なくすごさねばと思う。
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