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六月九日 [海]

アオバト2.jpg
海の青さと、アオバトの緑の羽根の深さに、何か繋がる世界を見た。
糞掃布と、ボドという布の世界に何か底知れぬ繋がりを知って、涙が出た。

今年の四月小田原で、ラオスの布に命を吹き込んでいる一人の日本女性の展示会があったそうだ。
昨日、ある場所で、一枚の紙切れを昨日いただきハッとした。「糞掃布について」と書かれたちらしには、『畑で綿を育て糸を手で紡ぎ布を織る。畑で藍を育て織った布を藍染めにする。藍で染めた布を服に仕立て自ら着る。中略 着古されてボロボロになった布は弱くなり実用性は低くなりますが、時を経て益々美しく見えます。村の人は実用のために作っているので着古しボロになると雑巾のような役目を最後に果たし惜しげなく捨てられていきます。
私はそれらがもったいなくて 捨てる前の布を集めました。丁寧に縫い目をほどき、痛みの度合いを分類し 新たに手縫いで繋ぎ合わせ新しい布を作りました。
糞掃布をつくる作業で糞掃布にさえできない端切れが出ます。その端切れで私は雑巾を縫い、その雑巾で床を拭きます。穴だらけになり最後は糸が溶けるようになります。中略
その溶けそうな糸が光に透け 輝き なんて美しいのだろうと。
約三メートル四方ある糞掃布、私は死んだらその亡骸をこの布にくるんでもらって土に埋めてもらいたいというのが夢です。』と綴られています。
襤褸という字もなぜか大好きです。ボロまたは、ランル。糞掃布とは、フンゾウエと読み
ごみの中に捨てられたぼろ切れの布でつくった衣。十二頭陀行の一つで,初期仏教の修行僧は執着を離れるためにこれを身に着けていた。というそうで染織家の志村ふくみさんが、エッセーで糞掃布の残欠に出会った時のことを書かれていたのを思い出します。

その布で亡き人を包むことと対照的に、否同じ世界で、ボドという一枚の布の話がありました。ラオスの糞掃布と、青森のボドという一枚の布のあまりにも深い世界に我ながら驚いたのです。

『物には心がある』と題した今は故人となられた田中中三郎の著書の中に、生命の布「ボド」のページがありました。長年使い古された麻布を厚厚として刺し綴ったボドは、寝る時に敷くが、女性がお産をする際にも使用したという。青森地方の昔の出産は座産であり、この布の上で赤ん坊を産んだという。ボドは祖父母や父母の使い古した着物の布を丹念に重ね、刺し綴ったものである。それこそ何代にもわたり布が重ねられてきたのである。子供はひとりの力で誕生するのではない。父母、祖父母、それに連なる先代があってのことである。十代さかのぼるだけでも、ひとりの人間の中には千人以上もの人たちの血が流れていることになる。中略
ひとりの人間の誕生の陰には、数え切れないほどの誕生と死がある。その人間の誕生を見守り、確認するためのボドなのである。

中略 「ボド」という布を、当時の人々が大事にしたのは、単に物が不足していたからではない。そこに大いなる意味と価値を見出していたからこそ大事にしていたのだ。貧しかったからではない。物質的には不自由でも心は豊かだった。以上『物には心がある。』より引用

布に纏わる、二つの世界。時間軸ではラオスの布は今も少なくなっているとはいえ実用的に存在する世界、青森では布の存在は消えたが心は残っている世界。遠い人類の布との歴史の一端を垣間見た今朝でした。


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はらぼー

布切れ一つにも、物語があるのですね。
とても興味が湧きました。
もしかしたら、地元のものにも、
そういう物語が込められているものが
あるのかも知れませんね。
by はらぼー (2015-06-10 08:01) 

ジル

ボド、聞き覚えがあるような・・・私の実家のほう(岩手)でも言ったような気がします。
雑巾にはなるかくらいの古い布(大体は肌着とか敷布のそれだった)、か、それをひねってねじってみつあみみたいなしめなわみたいなものにして火をつけていぶらせて、煙で外の草刈や畑作業の時の蚊やりにするもの、それもそう呼んでたかな?
今急に、うっすら思い出しました。(うっすらというところがはっきりしてなくてすみません)
by ジル (2015-06-10 21:03) 

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