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七月十四日 [花]

数年前の湘南高麗山の麓の桜。今は真夏の木の状態が鬱蒼たる緑一色なので、どこに桜の木がどれだけの大きさであるのか判らない。花の時期はその白い光の発光のような花弁達が、桜の木の存在を主張していた事がわかる。

幻の輪郭線の桜かな 無音

今頃桜を思い出すのは、あの爽やかで冷んやりとした季節が懐かしいからだろうか。来年又あの季節がやってくるはずだ。その光景を必ず見られる保証はないのだが。
佐野洋子さんの本に、大きな樹齢数百年の辛夷の木を庭に運ぶ話があった。樹木の値段はタダ。輸送費と植え替え費が百万円。大きな根を包みクレーンで吊り上げて植え替え雨作業の光景は圧巻だ。辛夷の木は花を咲かせることができたのだろうか。
IMG_3788.jpg

明治34年作家尾崎紅葉34歳は、大磯の安田善之助氏の家に着き、夕方、安田邸前に開業したばかりの高砂楼に泊まる。(以上横浜貿易新報よりママ)
随分安田善之助氏とは誰か探していたが、手掛かりは高砂楼だった。高砂楼が明治34年で開業し、その前が安田邸となる。高砂楼を大磯で探したが見つからない。長者林という海岸付近の宿で、明治22年開業の松林館という宿があり、開業時正岡子規が来ている。この松林館が火事のため明治35年に安田善次郎別荘の前に引っ越し開業している。名前は長生館となっている。

話を整理すると、安田善次郎邸はは、安田善之助邸と間違えて記述され、焼けた松林館は、明治34年開業した高砂楼を翌年の35年買い取るかして松林館としたのではないだろうか。
当時の写真で長生館の二つの建物が写り、それぞれの二階に大きな三文字が書かれた看板額が見える。解像度が悪く文字が読めないのだが「長生館」と「高砂楼」とあるのではないだろうか。尾崎紅葉の甲子萬堂日誌には、十四日雨、十時半起。入浴。新橋夕刻四時半出発の約にて装束して新橋に赴く。大磯に趣き先ず安田氏の居に着き、點燈の頃その前なる高砂楼に入る。この客舎は七八日前の開業にて予等一行を第一の客とす。痛飲二時に至りて眠る。とある。

安田善次郎氏は、東京大学安田講堂、日比谷公会堂の建設費用を寄付した安田財閥、現みずほグループの創業者。東京本所横網町に本宅があり、今は安田学園となっているが、長男善之助は大正10年家督を相続、書誌学に造詣深く蔵書家と知られているという。そうか父親の初代善次郎氏を尾崎紅葉は尋ねたと思ったのだが、二代目安田善次郎氏(幼名善之助氏)を訪ねていたのだ。幼名は大人になってからも通り名として使われるケースが多い。高砂楼という記述のみあらゆる記録に残っていないが存在感は、逆に高まっていく。謎解きは面白い。
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