3月1日 [世界]
「もの学」という、興味あるホームページの中で2015年年報の中に『心の練り方』鎌田東二さんの書かれた文章が面白い。
明治という近代日本で、文学という世界を推進させたのは多くが敗残者たちだった。とある。
敗残者とは官軍側の勝者でなく、挫折者側の賊軍の中から多くが文学という推進者になったとある。
勝者の人々は政治経済を索引し運営する側に回り、近代を築き上げていった。
対して敗者の、近代から外れた人々と文学、芸術、宗教との関係は根深いものがあるという。
戊辰戦争や明治維新では、日本人同士が勝者と敗者になっている。このことはかなり重要なことのように思えてくる。敗者の中でも明治政府に徴用されたものが多くいる。彼らは勝者に寝返ったのだろうか。それとも勝者の中に優れたものが少なかったからなのか。ともかく太平洋戦争前までは、この国に勝者側と敗者側の二つの世界があった。
太平洋戦争では日本は敗戦国となった。すべての国民が敗者側に立った。どこかで日本は負けてはいないという「勝ち組」という集団が存在し、今でも終戦という名にこだわる人たちもいるのだろう。
ここまで読んできて、勝者と敗者の間に巻き込まれた市民という存在は、敗者に含まれるのか勝者なのか考えてしまった。国家が存在するなら、勝者と敗者のみの世界なのだろうか。
最近もらった手紙の中に、『国連憲章の第107条、敵国条項』に注意されたしという内容があった。
ドイツは敵国条項に長年対処してきたが、この国はワキが甘いという。この国は敵国条項を無いものとして国際社会で振舞ってきたので、いつの日か切れる時が来ると指摘がある。
敵国条項とは何か、
日本は依然として、国際連合憲章第53条、第77条、第107条、いわゆる「敵国条項」に基づく「第2次世界大戦中に連合国の敵国であった国」(枢軸国)である。1995年12月11日の総会で賛成多数によって「敵国条項」の削除が採択されて、死文化していると言われてはいても、これらの条項は、未だに削除されていない。ドイツ第3帝国とイタリアは「国体」が変わっているので、「敵国条項」の対象から外されているのに対して、日本だけは唯一、「敵国」であるが故に、「戦争」はもとより「国際紛争を解決する手段としての武力行使」は、認められていない。日本国憲法でも、そのための「明文規定=第9条」が存在している。
この状態の下、つまり「敵国」のままで日本が、「集団的自衛権行使容認」の「憲法解釈変更」を「閣議決定」して、「平和維持活動(PKO)」の枠を越えて、「多国籍軍に参加」したり、あるいは「国連平和維持軍(PKF)に参加」したりすることは、「敵国条項」に真っ向から衝突することになる。もし、日本を「武力行使可能な国」にしたいなら、何をさておいても、「敵国条項」による「敵国」から日本を正式に外すか、「敵国条項」そのものを削除してもらうことが、先決である。とあるのだが、、、、、
明治という近代日本で、文学という世界を推進させたのは多くが敗残者たちだった。とある。
敗残者とは官軍側の勝者でなく、挫折者側の賊軍の中から多くが文学という推進者になったとある。
勝者の人々は政治経済を索引し運営する側に回り、近代を築き上げていった。
対して敗者の、近代から外れた人々と文学、芸術、宗教との関係は根深いものがあるという。
戊辰戦争や明治維新では、日本人同士が勝者と敗者になっている。このことはかなり重要なことのように思えてくる。敗者の中でも明治政府に徴用されたものが多くいる。彼らは勝者に寝返ったのだろうか。それとも勝者の中に優れたものが少なかったからなのか。ともかく太平洋戦争前までは、この国に勝者側と敗者側の二つの世界があった。
太平洋戦争では日本は敗戦国となった。すべての国民が敗者側に立った。どこかで日本は負けてはいないという「勝ち組」という集団が存在し、今でも終戦という名にこだわる人たちもいるのだろう。
ここまで読んできて、勝者と敗者の間に巻き込まれた市民という存在は、敗者に含まれるのか勝者なのか考えてしまった。国家が存在するなら、勝者と敗者のみの世界なのだろうか。
最近もらった手紙の中に、『国連憲章の第107条、敵国条項』に注意されたしという内容があった。
ドイツは敵国条項に長年対処してきたが、この国はワキが甘いという。この国は敵国条項を無いものとして国際社会で振舞ってきたので、いつの日か切れる時が来ると指摘がある。
敵国条項とは何か、
日本は依然として、国際連合憲章第53条、第77条、第107条、いわゆる「敵国条項」に基づく「第2次世界大戦中に連合国の敵国であった国」(枢軸国)である。1995年12月11日の総会で賛成多数によって「敵国条項」の削除が採択されて、死文化していると言われてはいても、これらの条項は、未だに削除されていない。ドイツ第3帝国とイタリアは「国体」が変わっているので、「敵国条項」の対象から外されているのに対して、日本だけは唯一、「敵国」であるが故に、「戦争」はもとより「国際紛争を解決する手段としての武力行使」は、認められていない。日本国憲法でも、そのための「明文規定=第9条」が存在している。
この状態の下、つまり「敵国」のままで日本が、「集団的自衛権行使容認」の「憲法解釈変更」を「閣議決定」して、「平和維持活動(PKO)」の枠を越えて、「多国籍軍に参加」したり、あるいは「国連平和維持軍(PKF)に参加」したりすることは、「敵国条項」に真っ向から衝突することになる。もし、日本を「武力行使可能な国」にしたいなら、何をさておいても、「敵国条項」による「敵国」から日本を正式に外すか、「敵国条項」そのものを削除してもらうことが、先決である。とあるのだが、、、、、
2016-03-01 13:40
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コメント(2)
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私は最近日本の近代史が自分で考えていたものとは大きく違うのだとわかりました。
何が正しくて何が間違いかわかりませんが
とてもショックを受けました。同じ日本人なのにどうして賊軍と言うのか?
それも不思議でした。
しかし、文学、芸術、宗教が敗者の側からの人が多いとは・・・・
敵国条項ですがいまだ日本を敵国として扱っている国も多いと聞きます
「基地と原発はなぜ止められないのか」を読んだ時にこの条項を知りましたが
国連の常任理事国入りを目指すより、先ずは形骸化されたとはいえ
敵国条項を外す事が第一と思いました
by majyo (2016-03-01 21:39)
mayoさま
近代史はたかだか100年から150年の昔なのに、わからないことが多いですね。一つの出来事もお互いの立場と、教育という成果で違った形に見えてくるものなのですね。ショックを受けられて後のことがこれからは大事なんでしょうね。物事の本質はどこにあるのか以外と身近なところにある気がします。
敵国条項の世界は国家がある限り存在するのでしょう。いっそ世界が合併を重ねてひとつになるか、限りなく古代に戻るのがいいのかわかりませんが。現実的な答えに何もなっていませんが。
by SILENT (2016-03-02 20:56)