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1186 [海]

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画像は100年程前の湘南は大磯海岸の絵葉書から、照が崎海岸より小田原、箱根方面を望む。その昔900年程前には、奥州平泉に向かう西行法師の姿がこの海岸にあったかも知れない。絵葉書の右手には、西行法師ゆかりの鴫立庵があり、西行没後500年の法要を、江戸期の俳人大淀三千風が行っている。
文治二年(1186年)八月十五日、西行法師は、鎌倉に到着。
その間の事情は、吾妻鏡に以下、
「十五日己丑。二品御参詣鶴岡宮。而老僧一人徘徊鳥居辺。怪之。以景季令問名字給之処。佐藤兵衛尉憲清法師也。今号西行云云。仍奉幣以後。心静遂謁見。可談和歌事之由被仰遣。西行令申承之由。廻宮寺奉法施。二品為召彼人。早速還御。則招引営中。及御芳談。此間。就歌道并弓馬事。条条有被尋仰事。西行申云。弓馬事者。在俗之当初。憖雖伝家風。保延三年八月遁世之時。秀郷朝臣以来九代嫡家相承兵法焼失。依為罪業因。其事曾以不残留心底。皆忘却了。詠歌者。対花月動感之折節。僅作卅一字許也。全不知奥旨。然者。是彼無所欲報申云云。然而恩問不等閑之間。於弓馬事者。具以申之。即令俊兼記置其詞給。縡被専終夜云云。」 とある。
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21世紀現在の大磯海岸の光景も昔と大きくは変わっていない。西行が歩いた鎌倉時代には、鴫立庵あたりは大きな入り江であったというのだが。
「こゝろなき身にもあわれは知られけり鴫立澤の秋の夕暮れ」あの有名な三夕の歌を詠んだのは何処いらあたりだったのだろうか。平安の昔、もろこしが原とは藤沢市から大磯あたり迄続く湿原を呼んでいたようだ。更級日記の作者の女性は二三日をかけて通ったと追想している。かなりの広い範囲が想像される。藤沢の砥上が原が鴫立澤という話もあり、初出の「山家集」からは何処で詠んだ歌か推測できないが、没後に編まれた「西行物語」では、砥上ヶ原の歌を詠んだその夕刻に詠んだことになっている。
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鴫立庵の隣りの別荘に5歳の頃から来ていた、白洲正子は鴫立澤は「あそこでしかない」と、著書「西行」に記している。同様に湘南という地域も定かな範囲はない。地名とは不思議なものだ。人が住む前から自然の営みはあり、人が住み始めてかってに境界を設けた。初期には境界は河であり峠であった。今、福島という境界は県境という境界線の他に、人々に心の境界線迄引いてしまった。境界とは本当に何なのだろう。
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春の海はあかるく、底抜けの光を発している。ひねもすひねもす何処迄も、、、
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大磯のさざれ石は、大きなものから小さなもの迄「五色石」と呼ばれ珍重されていたようだ。左官屋さんの技法で、「洗い出し」と呼ばれる技がある。セメントに小砂利を混ぜ込み、表面が乾かないうちに水で洗い流して、小砂利を並べたように施行する技法は、波打ち際の小砂利が波であらわれる光景を見て考えだされたという話を聞いた。結構古い家の玄関先や、壁、門柱などに使われている。
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海は穏やかな姿と怒れる姿と日々変貌を告げる。
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Silvermac

自然は二度と同じものが見られませんね。
by Silvermac (2012-04-15 06:19) 

DouxSoleil

ご訪問とnice!をありがとうございます。
100年前の絵葉書の海は、
浮世絵のようですね。。
by DouxSoleil (2012-04-15 11:26) 

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