2005 [海]
2005年この町に引っ越してきて一年目の夏を思い出している。2012年夏の鎌倉に出かけた光景からの連想である。鎌倉八幡宮の源平池は蓮の花が彼方此方で咲き、美しい光景の朝だった。7年前の大磯の海もこんな楽園の日射しに包まれていた。透き通るようなエメラルド色の海水は、その日何故か今迄に見たことも無いような姿だった。秋も近づいた季節だったろうか。ゼリーの様に緩やかに波立つ海面下を小さな小魚達が泳いでいる。岸壁から手を伸ばせば掬えるように、魚達は底から浮上して水面すれすれの世界を泳いでいく。海には透明な空からの青い光線が降り注ぎ、楽園を呈していたのだろう。昨日の鎌倉の池もそうだった。蓮池の下を悠然と亀達が泳ぎ回り、蓮の葉には蜻蛉がとまる。鮮やかな蝶の羽の破片を大儀そうに運ぶ蟻達。水面から出た蓮の葉や花達は、人の一生を思わせる姿をあちこちに見せていた。蓮の葉影の黒いシルエットの若い蕾、優雅に花を開きかけた恥じらいに満ちた咲きかけの花、咲き誇る絶頂の花、昨日迄の勢いを懐かしむ風情の花、花弁が水面に浮かび、船出する。森羅万象が夏の日射しの下にあった。あの日の湘南の楽園の海のように。
昔会社の同僚がタヒチを訪ねる夏休みの旅行で旅立った。帰って来て「あの島には何も無かった」とひどく憤慨していた。彼女は何を求めてタヒチ迄行ったのだろう。何を期待して、、、、
求めたものは、大いなる自然だったのか、大いなるサービスだったのか。
経済的に大きな負担をかけたからと、それに答える回答がタヒチからあったとは限らない。私にとってはゴーギャンの島であり、かっての楽園であり、遠い島にしか過ぎない。彼女が「何も無かった島」という言葉が今も耳に残る。何も無い程の豊かさ、何も干渉されないことの開放感、何もないことの充実感。人は何にどのように遭遇すれば満足するのか。
何かを求めすぎる不幸 何もないことの幸福
楽園とは私にとって何なのかふと2005年の海を思い出して考えた。
日常の中に楽園は確かに存在するのだろう。それは光であり、自分の心だった。
源平池には白い蓮の花が多い。薄紅色の花が咲く東の池には遠く源氏の白旗が攻めくるように見えていた。
蓮の花老若男女の眼降る SILENT
神鳩にサブレの香り蓮ひらく SILENT
楽園を弁財天の鳩がゆく SILENT
2012-08-02 08:23
nice!(25)
コメント(2)
トラックバック(0)
>何かを求めすぎる不幸 何もないことの幸福
同感です。人工的なものが何もない自然は美しい、それだけで美しい、と思います。
by アヨアン・イゴカー (2012-08-02 23:53)
由来の説明だの、彫刻だの、記念碑だの、句碑だの歌碑だのというものは、自然の景観をぶっ壊すと思っています。昔、そこに誰がこようがなにをしようが私に関係ないじゃありませんか。
いま、ここにあり、自分のアンテナで拾えるものだけを大事にしたい。
by tree2 (2012-08-04 12:52)