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1973 [写真]

R0080722_2.jpg手元に写真家土門拳さんの1973年に書かれた『死ぬことと生きること』という本がある。そのなかに「死も生も絶対なのは、それが事実であるからだ。運命というメタフィジカルな思考を離れて、それは事実そのものとして人間の全存在を決定している。それは決定的瞬間を定着するだけでなく、日常茶飯のすべてをも、その連鎖の上に成り立たせている。真実というものにしても、しょせん、歴史的、社会的に見た事実の連鎖に過ぎないだろう」と書いている。
事実という絶対性に帰依するカメラのメカニズムと言った。土門拳の言葉から40年後、現代のリアリズムとは何か考えていた。
2012年10月20日、鎌倉小町通り脇にあるギャラリーBで、写真家十文字美信さんと、彫刻家で仏師の瀧本光國さんの二人展に興味があって、ぶらりと出かけてきた。
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物凄い人出の小町通りの、喧騒から僅か数メートルで静寂とまでは言えないが静かな別世界のギャラリーに入る。作者の瀧本さんがいらっしゃった。雲と題された大きな作品は楠を彫ったものだそうで、生命力のある握り拳大の乳房のような塊が入道雲のように彫られている。蜜蝋で磨かれたという塊は軽い渦のような線彫りに包まれているものもある、白土がその塊の沸き出す部分に塗られている。白土は朝鮮からの白土で朝鮮白土と呼ぶものだと作者はかたってくれた。
床に転がる『風』と題した蕪のような塊は、羽根のような葉のような部分が緑の顔料で着色されている。木の素材の持つ本来の木肌に化粧をしたような作品の存在が気になる。作者に最近彩色をする彫刻というものを多く目にするのですが、と質問してみる。
近代になって日本に西洋から入ってきた彫刻はブロンズや大理石の素地のままのものが多かったが、日本古来のものは彩色は古典的にもあったと答えられる。仏像の装飾的な彩色や、お地蔵さん迄着物を着せられている世界を想像する。最近ギリシャ彫刻も大理石のままでなく色が載せられた時代があると言う話が話題になっていた。
彫刻とは、写真で言うモノクロームのかたちの世界なのだろうか。色を想像することで豊かに広がる世界。人間が感じる色の世界とは何かふと考えた。
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写真家十文字美信さんの世界は、FACEと神殿というテーマで構成されていた。目鼻立ちも風化した石仏であろう姿の顔だけのアップ。何かその顔を包む時間の渦の流れ、画面の外を流れる空気の渦を感じてしまった。
瞬間を撮った貌が動いて息づいている世界。そう瞬間とは間であって止まっている世界ではないのだ。
神殿のシリーズは、御自宅に生けた花をアップで、静物画のように撮られた作品。ご本人のブログによれば、室内のあちこちに活けた花は数ヶ月もたって枯れ果てたとしても、そのまま愛でておられる様子。水分が無くなり変色した花弁や茎も何故か存在感が、色のあった時より烈しく存在する。エジプトのカイロで見たツタンカーメンに捧げられた野草の花束を思い出した。数千年の時を経て神殿の奥深くに眠り続けた花束のこと。
写真に写された花は色を失ったが、より鮮やかな生の色を感じる思いがした。六十五歳の写真家が感じる花なのだろうか。
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その日の午後、ギャラリートークとして二人の作家のお話をきけて大変有効な時間だった。写真家は常々、写真に映るものの「外側」を撮りたいという想いをプロ写真家になってから思ってこられてきたという。
「写真の外側」とは何なのだろうか。それを知りたくてこの時間に参加させていただいた。写真の外側には時間もあり、空間もある。と語られる。
彫刻家は、「外側とは、支えるもののことだ」と言う言葉で語られる。「ささえるもの」何か底知れず美しい言葉であり、森厳な世界をおもう。

写真家の有名な作品に「首無し写真」というシリーズがあるそうだ。
一人の男性が風景の中でスナップの様に写されているが首から上は写されていない。首から下は絞り込んで写され瞬間でシャッタを切ったもでなく、かなり意図的に写した模様が写真の気配からわかる。作者は貌の部分のスペースを意図的に外しその分を地上の脚の分の下にスペースをくっつけたと語る。つまり全身をフレームにいれその後カメラを下に向け顔をフレームから外して撮っている。
作者は、フレームに収まった決定的瞬間よりもその外側にある世界のがもっともっと大切ものがありそれを撮りたいという。外側とは茶飯の世界なのだろうか。
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写真家は、首無し男の正体は「父親」だと語られた。作者の父親と自分の関係はどんなかんけいだったのだろうか。何かの時に首無し男のモデルは
作者本人だったという話を読んだ記憶がある。貌は父だったという単純な物語ではないのだろうが。外側の世界と時間、奥が深い。
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神殿 菊の二人
と題した作品で、話は盛り上がった。モップのようなハタキのような枯れて花弁が乾ききって斜め下になびく菊の花弁、二本の花は茎のしっかりした存在を外せば、二本を離そうとするとバラバラに花弁は落ち、砕けるだろうと作者はいう。しかし作者が撮りたかったのは、其所に親密な男女が寄添う姿を見たからだと言う。確かに寄添い耳元でひそひそと語らう男女の姿は浮かんで来る。色のついた世界からモノクロームの死の世界の香りも感じて来る。写真とは何だろうか。謎は深まる。難解な現代アートよりは身近なのだろうが、そんな筈はない。世界が今存在することが不可思議なのだから。
神殿 菊のふたり 会場で二人の意味は何なのだろうと思っていた。菊は今年はまだ見ていない菊の季節は、もうとっくに過ぎている。菊は性では雄のイメージか。
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雲を彫り、瀧を作品尾テーマする仏師でもある瀧本さん、写真家になった時からその、外側にある世界を写真にすることを目指している十文字さん。リアリズムと言えば写真、リアルな三次元の世界にすむ彫刻家の思う世界、リアリズムって何なのか少しだけわからせてくれた時間でした。ありがとうございます。
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画像にギャラリーでの作品の写真は一枚もありません。最初と最後の写真は2012年10月20日江の電から見た七里ケ浜海岸の光景です。

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コメント 4

tree2

奈良や京都の寺々も、丹塗りの色鮮やかだった時代があるはず。ところが多くは塗りなおされることなく、枯れ色のまま維持されてきたのでは?(赤い唐招提寺は…かつて赤かったのかどうか知りませんが、私としては許せない)。
日本人感覚の底には、白木や、白木が自然に古びていった感じをめでる気持があるのではないでしょうか。それは、素材である木そのものへの愛着、皮膚感覚といったもので、木でない素材にたいしては(衣装や大和絵などカラフルな世界もある)ちがった感じ方があるのではないかと思います。

by tree2 (2012-10-22 12:51) 

SILENT

写真家の十文字美信さんは、黄金の国日本から撮って、わびさびの日本を撮られています。黄金は権力者でなくとも何か凄まじいパワー持つていますね。エイジングという世界観からは出来たて生まれたての美意識は、伊勢神宮くらいしか日本人には合わないのでしょうね。
千年後のiPadどう未来の人が想うのか。楽しみです。
復元では古色をつける事のが多いですね。使われる素材にも古色はよりますね。
by SILENT (2012-10-22 13:06) 

e-g-g

『二人展』、近くなのに知りませんでした。
SILENTさんの記事のおかげで訪れることができそうです。
十文字さんには20年ほど前に広告用の撮影を
お願いしたおりのことが思い出されます。
アップした写真も良かったですが、
静かで落ち着いた撮影の様子が、とても印象に残っています。
by e-g-g (2012-10-23 19:51) 

SILENT

e-g-gさま
十文字さんの鎌倉のギャラリーは、二年前にオープンの模様ですね。
マスターもされているお隣の喫茶店beeの珈琲モカは絶妙な美味しさでした。
by SILENT (2012-10-26 13:53) 

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