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1873 [世界]

笠間春風万里荘.jpg
1960年代の終わり頃、茨城県笠間の日動画廊の美術館を尋ねた。笠間稲荷社の参道の近くだったとおもう。その地で北王路魯山人の鎌倉時代に住んだという母屋が、移築されていた。大きな五右衛門風呂とその浴室が目も鮮やかな織部焼きの孟宗竹を模した衣裳だったのを覚えている。
魯山人は「温故知新」を座右の銘としたという。鎌倉は山崎に昭和初期に窯を築き、母屋と慶雲閣という書院造の建物を、神奈川県高座郡の村から移築したという。高座郡の庄屋の古屋だという。
鎌倉星岡窯跡.jpg
鎌倉の窯場は、東京に開いた料亭「星岡茶寮」の器を焼く為だったという。鎌倉の秘境と呼ばれるような山崎という地名に、京都山崎の地を連想する。魯山人は京都に生まれ、生い立ちは哀しいという。
今は鎌倉の窯のあった土地には山崎小学校が建ち面影も残り少ないとか。
2013年の正月に奇遇なことから、鎌倉に移築された魯山人の住んだ母屋のあった旧家の事に出会った。
それは以下の一枚の図面から始まる。
絵図面.jpg
明治6年、1873年3月に描かれた一枚の絵図面。(神奈川県大磯町郷土資料館所蔵の絵図面から引用)伊東宗兵衛屋敷五畦歩、伊東孫左衛門屋敷二畦歩とある。一畦歩は約は百坪、七畦歩は凡そ七百坪になる。絵図面には村役人立ち会いの上、明治六年三月八日出来相成り写すとある。此の頃地租改正事業が行われ、一村を通し番号で附した。と歴史年表にある。伊東家は神奈川県高座郡用田村地域に住む豪族ということだ。伊豆から戦国時代に此の地に移り住み繁栄したという。用田は現在は藤沢市だが、かっては中原街道、大山街道、宮原街道の交差する用田の辻は交易物で賑わった場所だと言う。隣接して御所見村もある。
魯山人がこの旧家から母屋を譲ってもらう経緯は判らないが、京都の御所南小学校を卒業した魯山人と、高座郡御所見村の旧家と言う出会いにも何か不思議な縁を感じる。
この絵図面の地に伊東家の母屋があったかは不明だが、この絵図面の場所を特定したいという思いが募った。
1947用田地区.jpg
絵図面の東京往来道が中原街道であることがわかった。絵図面の場所が特定しやすくなった。北方向に伊東宗兵衛神社なるものも明細地図に現在もあった。東側は明細地図でも寒川社に向かう坂道であった事も決め手に。
中原街道は徳川家康が江戸の最初に入る時に使った街道でもあるようだ。
狼煙をあげ江戸から平塚の中原まで一直線の道を開いたという。伊東家の裏山も街道からは25mの高低差で、砦の役目も初期は果たしていた気がする。とにかく現地に行ってみたい気にもなった。
左は藤沢市が作成した用田地区のハイキングコース。伊東家の墓⑧や菩提寺が掲載されている。伊東家が建てた寒川社もある。
右は1947年米軍が撮影した用田地区上空の写真。
明細地図.jpg
図書館の明細地図で、絵図面に該当する地域を見つけた。1947年の航空写真では二つの屋敷地らしいものが写っているが、明細地図では戸建て住宅が建ち並んでいる。最も昭和初期に鎌倉に移築されたのだから1947年の昭和22年には用田地区には建物は存在しない。
ともあれ伊東家関連の地域が地図とネットから浮かび上がってきた。
IMG_0001.jpg
今から150年前の絵図面の場所が特定出来たのは嬉しい限りだ。その暦史の中に多くの人々の悲喜こもごもが潜んでいるのだろう。
グーグルマップの現在の地図を眺めていたら、百年後の此の地の世界も朧げながら見えてくる様に感じた。
用田現在.jpg
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cafelamama

魯山人の居宅だったといわれる場所は、いくつかあるようですね。
石川県の山城温泉にもそういう居宅があって、拝観したことがあります。
魯山人が須田青華に師事して作ったた九谷焼は、いいですね。
by cafelamama (2013-01-09 14:44) 

SILENT

cafelamamaさま
九谷焼で学んだ魯山人は鎌倉の窯でも、九谷焼を焼いたようです。
石川県の居宅は始めて知りました。有難うございます。
by SILENT (2013-01-10 13:57) 

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