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1977 [物語]

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1980年代の日本はライセンスビジネスという世界が、アパレル業界では一般的であった。ParisやNew Yorkから直接現地で売っているものを仕入れて売るのではなく
ブランド名をライセンス契約して、商品を承認してもらい日本国内で販売する方式が主流だった。ParisやNew YorkやLondonの一流ブランドと契約して、日本流にアレンジした商品を百貨店や専門店で販売した。私が勤めるアパレル会社でもライセンスビジネスブランドは数多く、その商品製作に問題点を抱えていた。つまりライセンスした商品とは、欧米のオリジナル商品と同じものでなく、ブランドのロゴマークを使ったのみの商品や、欧米にはないこたつ掛けや、魔法瓶と言ったたぐいのものも、アパレル商品内容に含まれていた。
あるとき来年の企画のテーマが「ピンク」という一枚の布切れでやってきた。何も来ないよりはましだが、イブニングドレスのイメージの素材のピンクが、こたつ掛けのピンクの布地に化けたライセンスでは余りにも隔たりがあった。
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今では欧米で企画され、世界の各地で縫製されたオリジナル商品が日本の直営店や百貨店のブランドショップにならぶが、ライセンスという自由な時代があったのだ。これはお互いの文化の違いを消費ビジネスという世界に翻訳し、売れ筋商品第一主義で固めたものだった。確かに日本製品の繊細で緻密な商品の確かさは賞賛された。ライセンスビジネスとは何を消費者が求めた時代だったのだろう。何か憧れているブランド、その栄光と現在の変遷は烈しいものがある。
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ライセンスブランドで、国の違いによる衣服観の違いを思わせる内容があった。
New Yorkから来るライセンスブランドの内容は、かなり即物的で物語生が高く、より具体的な情報が流れてくるのだ。それに較べて欧州のブランドはイメージのみで具体性がない。それを着るモデル達もアメリカのブランドはカジュアル主体だが、生活感にあふれている。欧州のモデルはイメージやムードが強い。よく言えば文学的。ブランドでこれだけの差があるのはバックにある文化の違いなのだろう。
アメリカのブランドはNASAのように国際色に溢れ共通言語も見通す合理性がある。アパレルでもより具体性のある現実感のある資料が送られてきた。
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アパレルの流行は社会の表層を象徴している。その深いよどみにある社会の心理迄露出していると感じる場合がある。オートクチュールという情報源からストリートファッションという時代から、アニメキャラクターの影響まで虚像が現実を犯す時代は随分前から始まっているのかもしれない。ライセンスビジネスとはその国の文化が良い意味で活かされた時代なのかもしれないとおもう。
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1980 [物語]

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1980年の初頭を舞台にした中国映画『山の郵便配達』を昔何度も見て涙を流した。今ふと思い出したシーンについて考えている。あの頃、父と息子と一匹の犬が湖南省の山岳地帯を郵便配達と、郵便の集配で歩いていく光景が今の季節甦って見えて来る。父親がある盲目の老婆に来た手紙を、本人の了解を得て読み上げるシーンが感動的だった。何度か尋ねて手紙が無いときも、老婆の前で手紙を読むことをする父親と、手紙が無いのに気づいていても嬉しそうに耳を傾ける老婆の姿を想像して胸が詰まった。深読み過ぎるかもしれないが何か気配で人は真実を感じてしまう。
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今の中国にも、オレオレ詐欺なんてモノがあるのかどうか想像してしまう。2011年の原発事故以来、メディアのテレビや新聞の言葉には、必ずその言葉を聞いて、正反対の言葉を想い浮かべる癖がついてしまった。「原発は今は安全です」の発言には、「原発は今実は危険な状態が続いています」と瞬時に思う。「世界不況へまっしぐら」には、「世界不況で活気がでている世界もある」。ある言葉とその対語となる世界の関係はどうなのか。敏感になりました。だから善良な郵便配達夫の親子の今の姿が心配になったのです。日本のオレオレ詐欺にも、かって家族という絆を信じた時代の影を充分感じるからです。家族とは何なのでしょう。
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以上、映画『山の郵便配達』のシーンから。山の郵便配達は、親から子へ、世代を越えて、次の世代へ、生きる事と働く姿をリレーする物語でした。山の緑や深い谷がもう一つの主役の映画でした。此の季節緑や青が主役の季節です。私の好きな色に『緑青』という色があります。鉄の錆びた錆色も好きなのですが、銅が錆びて緑青をふき始めるという世界が好きです。何か緑青から神秘的な『時間』を貰えます。
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緑青は別名、Patinaとも呼ばれているようで、数年前ヘーベルハウスの扉が、このパティナ色で参ってしまったことがあります。当時家造りとはと何かで、多くの本を読みました。中でも『家を建てるとは家族を考える事』といった内容の本には納得しました。家とは人間の巣である訳ですから。
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青い海と言う呼び名は、緑の海にも感じることがあり、色名の歴史で、青と緑にはまったことがありました。信号も青や緑と感じる世界。青は昔、影を意味して暗さを強調する言葉だったようですね。沖縄では黄色も青や緑の範疇として含む言葉が
あったと知って何か嬉しくなりました。色名の世界も、色の世界も奥が深いが、それを感じる人間の世界のが奥はもっと深そうです。山の郵便配達、今では携帯電話でメールの世界。あの老婆は誰から手紙を受け取っているのだろう。
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追伸:1980年始めての海外出張でイタリアのホテルに着いた時、日本からの一通の手紙を受け取りました。結婚間もない相棒からでした。

2009 [物語]

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2009年11月東京浅草寺の雷門下で見た大きな白い犬二頭、2012年昨日のテレビで浅草が写ると、遠目に二匹の姿が見えた。大きな白いシェパードと、秋田犬だろうか。映画「もののけ姫」の犬達のようにおとなしいが迫力のある身体だった。
彼等が今も生きていた。それだけで何か嬉しくなった。テレビのなかで懐かしい思いをすることもあるのだと、ふと思う。


懐かしき白き影ゆく夏の寺
眼差しは門の外でる犬の夏


2000 [物語]

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2000年頃、藤沢の遊行寺の市か、茅ヶ崎のフリーマーケットで曲げわっぱの桶を買った。裏側に足利本町、忠右衛門と筆書きがあった。何時の時代に作られたものであろうか。先日足利に出かけた時には気がつかなかったが、あの町で誰かが使っていた道具であることを思うと親しみがわく。足利の町の一画では古い瀬戸物屋があった。火鉢や薬缶、積み上げられた瀬戸物が埃をかぶっていた。
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昔の人は、新しく生活に加わった持ち物に「名前」を書いた。ドコノダレガシ、そんな時代はいつに終わったのか。きっとモノを簡単に棄てることがあたりまえの時代には終わっていたのだろう。子供達の持ち物に名前を記す親は、現在も日本ではどれだけいるのだろう。名前から持ち物に、マークや記しをつける人は多いのだろう。携帯電話も自分仕様の装飾は盛んのようだ。
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足利学校の宿坊の中から庫裡を望む。昔の人達の持ち物の数が現在とはちがい、随分少なかったことに憧れる。豊かな心が其の分多かったのだろうか。
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簡素でモノが大切にされた時代。それは人間も大切にされた時代なのだろう。
モノに固執する現代より、何か尊いものが溢れていた気がする。
豊かな人間の知恵の樹のような樹齢五百年以上という大銀杏の根。
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インド製の馬も、どのような経路でやってきて、今ここにいるのか。
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其の話を、ロバが耳を傾けて聴く
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数日間、朝開き、夕に閉じていたチューリップのピンクが白い花に変わった。
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薄紅のチューリップ聴ける骨の声 SILENT

1998 [物語]

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1998年当時の私は 茅ヶ崎市の或るバス停から駅に出て、都内迄通勤をしていた。
ある春の日、バス停で一人の外国人青年が私に声をかけてきた。流暢な日本語で「私はAと申します。インドから来て鎌倉にあるM社の研究所に勤めています」と、彼は薄手のグレーの生地のスーツを着て、真っ白なシャツに地味なネクタイを締め、靴はブラウンの良く磨いたものを履いていた。ソックスも白いものが少しだけのぞいていた。その時の出会った彼は28歳の南インドから日本に来て二年の青年だった。彼とはバスの中で、日本語での会話でやりとりができた。旧マドラスからバスで数時間の海沿いの街に生まれ、14人家族で3階建ての家に住んでいる事。父親が洋服職人で、姉の二人が建築家になったこと、同居の家族はオジさんや従姉妹迄いるような様子の事。学生時代から趣味はクリケットをすること。おしゃべり好きで好奇心旺盛な彼は、日本の習慣や生活の事を色々聞いて来た。どこまで理解で来たか知らないが、結婚式については興味が深かったようだ。鎌倉で最近結婚式
を見て来たという。鶴が丘会館の近くだそうだ。
画像はアンティークのフランスの陶器製のビー玉、川を浚うと底から出て来るそうだ。手前は大好きなポスタルコのスケッチブック。
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彼にはお手製のチャイや、カレーをご馳走になった。インド映画のビデオテープもよく借りた。ダビングに継ぐダビングで真っ白に近い画像はダンスや独特の音楽が
楽しんで映画を見る人々を想像させた。でも現地ではネットから映画を見るような人達が増えていくんだろうなと思わせた。彼はデルのノートパソコンを猛烈な速さで叩くSEが職業だった。インドの大学を出てバンガロールの会社に入り日本に派遣されているようだ。待遇はかなりの厚遇なのだろう。
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知り合ってから半年が過ぎ、彼はインドの食品やビデオ、雑誌などを手に入れる日本での店に何回か連れて行ってくれた。独特のその店内の様子と流れるBGMが楽しかった。突然来年インドに帰って結婚式を挙げるので、出来たら出席してくれると嬉しいですと招待状をもらった。鎌倉の会社の同僚も出席するからという。
バス停での知り合いだけで、インドの南迄、どうしよう。
聴く所によるとインドでは結婚式は一日では終わらないという。大勢の参加者が出て、パレードには象も参加するという。南インドの方では習慣がまだ古風に残っていそうだ。しかし
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本屋を漁ってインドの情報を集めるが、一度はまると大変な国らしい。
あのヒッピー達の憧れの地。最近はマハラジャ達がIT産業に乗り遅れないよう必死らしい。Aから送られて来る英文メールも、株や成長企業の情報ばかり。彼等のネットワークも凄い。マネーゲームのお誘いでもあるようなのだが。
ある日、バス停でデジカメで撮った彼の画像を使って彼のホームページが出来たという。のぞいてみると確かに彼の写真とキャリアーを載せた頁が開いた。でも其の一頁だけ。そうかHPは一頁でも立派なホームページなのだ。
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それにしても結婚式の招待状、どうしよう。
会社の同僚なら出かける口実にはなるが、インドに興味があるので、ちょっと休暇をというわけにも。結局大学二年生の息子に招待状を見せた。
何かきっかけを求めていた息子は飛びついてしまった。
翌年春休学届け迄出して彼は、インドへ旅立った。
この話の続きは又いつの日か、、、
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どや [物語]

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海で「どやがお」に出会った。
どや顔が、流行っているのだと家族から聞いて知った。
どや! ええ面構えでっしゃろ というようなことか?
得意満面の顔か どや 今夜の どやは何処にしようかと
此の日
空と海との 響宴があった 黄金の響宴
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茜空は黄金を帯びはじめ凄みのある朱の深さに近づいていった
黄昏れどきの 神々の響宴を聴くように
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空が大きい
人が小さいから 
余計に感じる広さなのか

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空も波も雲も陽も風も
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寒色の東 黄金に染まる西
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光のいくえは何処か


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繰り返すいのち


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日月 [物語]

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人は日月と言う文字を何故使って来たのだろうか?
日は太陽、月は月。天体を巡る様々な事象を不思議な思いで古来から観て考えて来たのだろう。
太陽は140万キロの直径を持つ。月の直径の400倍の直径だそうだ。地球から月までの距離は凡そ38万五千キロ。地球から太陽までの距離は、地球と月の距離の400倍の1億5千万キロだそうだ。
それにより、地球からの月と太陽はほとんど同じ大きさに見えるのだと言う。二つの眼は古来から畏怖の眼でみられ、宗教としても重要な役割を担うことになっている。地球と月と太陽の関係は微妙なバランスで存在する。
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日輪と月輪をみるたびに思う事です
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月食 [物語]

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月食を観てしまった
赤い月 世界が変わって見える 不思議な光景が連続した時間だった
日常と違う月 何か特別な月
普段も同じ月なのに
数段も違った世界を見せてくれる月
世界が神秘に満ちていて何か安心出来る世界だった
人が小さなものであることを教えてくれた時間
あ り が と う
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子供の頃月は「ののさま」と言うと誰かが教えてくれた
祖母だったか
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月を食べているのは誰か
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カメラがなれていない世界を肉眼では記憶しようと必死だった
頭の中に 夢の中に 食べられてしまった 月の記憶を刻み込んでいる
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食べ終わった月は又空を食べて顕われた神話の世界
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視覚 [物語]

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見るとは何か
深くは考えていないが
感覚について考えさせられることがあった
ある写真家の言葉に
カメラを構えたとき
その見ている光景が
朧である方が良い写真が撮れる
どんな気配を感じとり
人はカメラのシャッターを切るのか
人がそのとき見たものと
カメラのレンズが見たものは違う
その違いの差を埋める努力もしようがしまいが
その世界は違う
絵を書く行為でも
そうであろう
頭の中と画面の現実は違う
これを一致させることは出来るのか
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ある高度から見た光景は
今パソコン画面の表示画面に現われている
あのとき見た光景とは微妙に違う
モニターを傾けようと
あの街を見た生の瞬間とは違っている
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何気に美しいと思うものの価値とは何か
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懐かしさを感じる光景に何度もシャッタを押し
脳みそにもその瞬間を記録する
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丸い世界が好きだ
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六本木にあるピラミデビルに先日出かけた。デジャビューでこのビルには来た記憶がある。何か展示会か内見会を尋ねているのだろうか。表通りに面した青山ブックセンターは懐かしい。十数年前スタジオがこの附近にありカメラマンが引きが足りなくて路上にカメラをセットした光景を思いだす。その路上の前のビルがピラミデビルだった。一人の若い作家の立体作品を見た。タイトルに「六本木モスク」とあった。世界を多面体で表現した立体地球図と行った解説があったのだが、現代美術は難解だ。真鍮と板ガラスで出来た150面体はイスラムの教えのシンボルだという。SDIM0613.jpg
開け放たれたギャラリーの前からスナップした。六本木にもモスクはあったかなと思いながら
。作者は数年前原発のある日本の海岸線をリサーチしている時に、松ぼっくりを拾ったと言う。フィボリッチの有名な黄金分割の規則性で出来た松ぼっくりは建築的であり完全を求めた自然の美しいかたちだ。そのかたちが150面体へのヒントにもなったという。
現在美術では、その背景にあるものを知ることがわかり易さのヒントになるのだろうか。
だが判ったり謎が多く残る作品のほうが記憶に残る。脳みそが解明してない問題を大事にしまい込むのだろうから。
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身の回りに転がる幾何学的な立体物は抽象画に似ているのだろうか と ふとおもう
偶像崇拝と偶像崇拝を禁じたイスラムの幾何学的世界。
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隣りにある六本木ヒルズの森美術館で1960年代「メタボリズムの未来都市展」を見た。原爆記念公園から大阪万博を経てグローバルメタボリズムのイタリーボローニャの都市計画。
戦後日本甦る復興の夢とビジョンと タイトルにあるが 何か空虚な夢の世界に迷い込んだ実感がした。ある建築家の方から中国の「無人都市」を検索すると驚くほど出て来るよと言われた。「都市」から「地域」へという言葉のが今の時代にはふさわしい実感がした。
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道の雲 [物語]

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昭和6年の9月20日の新聞に「湘南遊歩道路失業者の為に」と題した新聞記事がある。湘南遊歩道路とは湘南海岸を今でも走る国道134号線の前身の道路名である。「遊歩道路」という響きが懐かしい。当時の写真で松林のだだっ広い道路を着物姿の女性が歩いている写真を見た記憶がある。新聞では失業登録者数70名とあるが、どこの範囲の地域なのだろうか。よく読むと大磯で70名、平塚では751名が湘南遊歩道路の建設の為に採用されるということらしい。昭和6年の全国失業者数は300万人もいたという。昭和4年アメリカに発した経済恐慌が日本にも押し寄せていたと言うことか。資料では昭和初期の湘南遊歩道路(現国道134号線の龍口寺一大磯間)建設の析りに、海岸線のプロムナード(遊歩道)と乗馬道が鵠沼地区に一部つくられているが、日本では意味もなく夕刻に散歩する習慣や乗馬の習慣は生まれようもない。とあります。観光の為の道路計画と失業者政策。何か今も似通う状況の様な気が。
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神奈川県道片瀬大磯線 (かながわけんどう かたせおおいそせん)とは、現在の国道134号西半部の前身に当たる神奈川県道である。計画設計段階(1930年)の公式名称は「湘南海岸道路」または「湘南開発道路」であるが、着工(1931年)段階から国道昇格段階(1953年)までは一般的呼称として「湘南遊歩道路」が用いられた。「湘南遊歩道」、「遊歩道路」、「湘南道路」、初期には「湘南公園道路」、「湘南海岸公園道路」、「湘南パークウェー」とも呼ばれた。Wikipediaより
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国道134号(こくどう134ごう)は、神奈川県横須賀市を起点とし、同県中郡大磯町を終点とする一般国道である。神奈川県横須賀市三春町を基点とし、神奈川県中郡大磯町東町の西湘バイパス「大磯東IC」を終点とする一般国道。この134号線という名称は国道246号線と同じ
1952年(昭和27年)6月10日に公布された道路法によって定められた道路の種類である。
それぞれの始点と終点が決められた歴史を紐解くと面白いものが見えてきそうですね。
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今年の秋はまだまだこんなに入道雲が出てきます。
秋らしい雲との響宴が続いています。
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湘南大磯漁港にて
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