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支離滅裂 [物語]

支離滅裂な物語以前の素材
何か支離滅裂な選択にもわけはあるのだろうか
人が選んだものと、機械が選んだものの違いは
数日間の記録の中からの画像達
何やら季節感はありそうだ

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キョンという獣叫びし初夏の丘

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怒り続けて今年も春消えた

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横顔の西に東に嗤う夏

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稲荷の人散髪済ませ虹を視る

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メレンゲの軽き気持ちの水澄

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蠅の背を水無月のひかりそっと撫で

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繕いの稲妻はしり薔薇殺す

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扉の彼方貴方微笑む紅い星


1912 [物語]

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、旧木下建平邸(大磯(字北本町)1007) (現大磯町所有) 
  明治末~大正元年に坂田山付1007に別荘を建てる。(土地は元島津氏の一部)屋敷は駅前で町を見下ろす高台にあるので相模湾が一望される。敷地はほぼ正三角形で三角屋敷と呼ばれている。建物は明治末期に建てられたと推定され、地下一階で三階建の洋館で各所にベイウィンドウが見え外壁は南京下見板張りである。構造はツーバイフォー工法で設計者は米国帰りの日本人と推定されている。現存するツーバイフォー住宅としては最も古いものといわれている。後に譲り受けた山口勝蔵氏は大正12年関東大震災の時、自動車小屋を借り米の廉売をして町民から感謝された。その後、人手に渡るも昭和36年に伊東末吉が譲り受け、現在は、大磯町が所有し活用方法を検討中である。平成24年2月に国の登録有形文化財(建造物)に登録された。以上 [歴史の町 大磯HP]より引用。
約百年前に建てられた、日本で最初のツーバイフォー木造建築と呼ばれている。建物に向かって左右に坂があり。東側の坂を佐土原さんの坂と呼び、西側にカーブしてくだる道を山茶花通りと町の人は呼ぶ。佐渡原さんの坂を下ると右手にアワビを沢山埋め込んだ塀の家があった。私はこれから鮑坂と呼びたいといたが、数年前に塀が取り払われ、今では数個のアワビが残る塀の残欠があるのみとなった。佐渡原さんは島津本家の支藩で佐土原藩という藩があり、近代の人、島津華子さんもこの藩を祖先に持つという。
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山茶花通りの坂は緩やかに西に美しいカーブを見せて下っていく。苔が貼付いた石垣と白い板のフェンスが和む光景である。
洋館に西日が当たり白い家は、冬の空に溶け始めていた。
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春の様な日射しが近そうな気配を見せた日
佐土原の坂にて春とすれちがい SILENT
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洋館の冬の日射しに溶けし本 SILENT
李朝の灯火器に、白椿の炎をあしらう。

白き火は李朝の春を待つ白さ SILENT
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沢庵への、つけこみ準備を待つ大根役者 其の一
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沢庵への、つけこみ準備を待つ大根役者 其の二
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春の姿をまとっていた 白菜の芯 以外と美しい芯のある奴だった
はくさいの しんのなかには はるひそみ SILENT
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沢庵に脇役として決定の 大根の葉
だいこんのはなにもまけず春の葉よ 
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2013 [物語]

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先日箱根の大湧谷に出かけた。黒卵を買い、強風の中富士山を見て帰って来た。海抜が高いので雪も谷に残っていた。
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強風はこの町に戻ってきても吹いていた。左義長の火祭りの前に12日になると下町には道祖神の御仮屋ができ、オンベタケが風になびいていた。
吹き流しの流れる様と、風の音が凄まじい時代の流れの音の様にも聞こえてきた。R0087714.jpgR0087712.jpgR0087693.jpg
御仮屋の道祖神に手を合わせる人びとの姿が、見かけられる。
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ミチキリという集落の境界を別ける、注連縄の中心には矢の先に、サイコロを表わす形が下がる。賽子は漁師の舟の舟魂様にも納められたという。
R0087706.jpgR0087674.jpg12日と13日の晩は七箇所の御仮屋を廻る、ナナトコメグリと呼ばれる行いがある。
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静かな下町の夕方の光景
七つの集落に陽が落ちていく
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団子を飾る家の中は温かい
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オカリコの唄
オカリコ メデテ オイエは ご繁盛
ご繁盛 ご繁盛
オカリコ メデテ
福の神が舞い込んだ
オカリコ メデテ
御家は ごはんじょ

御仮屋に道祖神さんを祀り 集落を12と13日の晩に廻る子供たちが
唱う 囃子唄 オカリッコメデテ

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下町の理髪店に貼られていた写真
明日は団子焼き
左義長の宵宮の日に

1967 [物語]

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咲きつつも何やら花の寂しきは咲きにし後をおもう心か
橋の上で、お通が見た文字は、武蔵が彫り込んだ想いだった。
吉川英治の「宮本武蔵」を読んだのは1960年代だった。此の頃は固い花の蕾が好きだった。後に花の色は染色には適さず、枝の中にその色のエキスを潜ませている時期に染色の布への移植ができるのだと聞いた。花は既に色の残影なのだろうか。武蔵が箸で飛ぶ蝿をつかむ描写はリアルでないと山本周五郎が書いて、二十代は周五郎のファンになった。ひっそりと世間に目立たず咲く路地の花が好きなった。
近頃は花を卒業して、実物や葉が一枚其所にあるだけで満足出来る。
自然の残欠が好みとなった。
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果実は鉱物にも似ているのかとおもう時がある。
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刈り取った筈の枯れたゴーヤの先に、新しい芽が出ていた。
天に向かい落ちていく冬の芽ありて SILENT
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フェイジョワはジャムにされずに朝食で丸ごと向かれている
果実の味は、洋梨に似て
ようなし三兄弟
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林檎姉妹
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最上段 柿のふたりの間柄
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大玉柿五人初冬に並ぶ

2012 [物語]

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海辺の少女は風になっていた。ある時は少女は光になり、砂になり、波になりして、其所にある自然と同化していた。卑弥呼のようにナウシカのように。海辺の少女は今を予言していた。今世界はココにあることを。
戯れているのではなく、世界の一部であることを満面の喜びを身体で表していた。
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果てしなく歩いてきた生き物がいた
これからも果てしない世界を彷徨うために
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獲物は魚だろうか
それとも哺乳類
地球上の動物達は15億回心臓を働かせると命が果てるという
ミツバチは零点一秒に一回、人間は一秒に一回、
それにより寿命が決まるという
天空にある鳥の脚には獲物が捕らえられ
鳥は器用に脚で獲物をついばんでいる
捕えられた獲物の心臓は何回波打ったのだろうか。
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海から古代に人間も誕生したのだそうだ
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長い年月をかけて地上に馴染んできたのだろうが
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その歳月は、この星の誕生の長さからすれば針の先ほどでもないと言う
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水の惑星
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70億の人間達の他にどれだけ多くの生命が一緒にいることか
その数を知ったとして何になる
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彼方から来るふたり
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東京ではかって、大阪ではかって、全国でかって、空から縦に爆弾が振ってきた時代があった。沖縄では横から縦から銃弾が飛び交ったという。
戦争はこの星では終わることなく続いている。
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平和の波に乗り込もう
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今日も波に乗るために人々は集まってきた
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1971 [物語]

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1971年頃の私は何処にいたのだろうか。41年前の私は21歳だった。この年のベストセラー本は、
1.人間革命 (池田大作)
2.冠婚葬祭入門(塩月弥栄子)[光文社カッパブックス]
3. 日本人とユダヤ人(イザヤ・ペンダサン)
4. 続・冠婚葬祭入門(塩月弥栄子)[光文社カッパブックス]
5. 春の坂道 全3巻(山岡荘八)[日本放送出版協会]
6. HOW TO SEX(奈良林祥)[KKベストセラーズ]
7. 誰のために愛するか(曾野綾子)[青春出版社]
8. ラブ・ストーリィ(E・シーガル)
9.続々・冠婚葬祭入門(塩月弥栄子)[光文社カッパブックス]
10.戦争を知らない子供たち(北山修)
太平洋戦争の終結から、二十年以上の歳月が流れていて、「戦争を知らない子供たち」の曲が流れていた。
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最近読んだ、小学館発行のヤン ヨンヒ著『兄 かぞくのくに』が映画化されていることを知った。本の冒頭は『私には、三人の兄がいる。兄は、北朝鮮にいる。』で始まり、物語は映像を見るように展開する。映画化されたドキュメント内容が目に浮かぶようで一気に読んだ。著者は1964年生まれの在日コリアン二世で、ニューヨークの大学院で学んだ劇団女優であり、映像作家だそうだ。2005年『Dear Pyongyang ディア・ピョンヤン』を発表、ベルリン国際映画祭アジア最優秀映画賞を受賞したそうだ。どこかで作品の事を聞いたが鮮明ではなかった。
海辺の子供たちが映る画像は、『ディア・ピョンヤン』の中から、1971年のヤン家の4兄弟の姿だ。この年の秋、7歳だったヨンヒの、二人の兄が新潟から北朝鮮の祖国に旅立ったと本にある。
翌年の1972年長男も急遽北の祖国に帰国することになったという。主席のための『人間プレゼント』という日本からの在日学生200人の中の一人だったそうだ。
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1971年一家揃っての写真だろうか。家族とは何かこの本で学べる気がした。著者は兄達が帰国してから11年ぶりに北朝鮮に行き兄達と面会出来たという。兄達には新しい家族と、彼の国での十年の重みが伝わって来る。
著者は18歳になっていた。
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映画『兄 かぞくのくに』では三番目の兄が重い病気のため、特別に日本へ帰国出来ることになったという1999年の冬の話を焦点に展開するようだ。この本から女性の強さというものを緊々と感じた。母性であり自由さであり、現実へのズーズーしい迄の対処だろうか。
北朝鮮の三人の兄、日本での在日の両親、ニューヨークで活動する妹。
一家の行方が気になった。
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本のあとがきで、著者は『人は誰でも荷物を背負って生きている。誰の荷物が一番重いとか比べるのは無意味だが、その内容を知るのは大事なはず、なぜなら一人一人が背負った荷物の中を覗き込む事で、その人生だけだはなく、彼や彼女が生きた社会や時代が見え、その中で生きる個人の現実が鮮明に浮かび上がるからである。リュックの奥底に隠してある、捨てたいと思っている「ゴミ」もしっかりと見つめたい。臭かったり面倒だったりもするが、その現実をしっかり見つめたい。』と結んでいる。
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『国は、何処の国でも荷物を背負って生きている。何処の国の荷物が一番重いとか比べるのは無意味だが、その内容を知るのは大事なはず、なぜなら国家のそれぞれが背負った荷物の中を覗き込む事で、その歴史だけだはなく、彼の国の彼や彼女が生きた社会や時代が見え、その中で生きる個人の現実が鮮明に浮かび上がるからである。リュックの奥底に隠してある、捨てたいと思っている「ゴミ」もしっかりと見つめたい。臭かったり面倒だったりもするが、その現実をしっかり見つめたい。』
彼女がいう人を、国家に置き換えてみた。人と国とが自然につながるのが不思議だった。否国とは人で出来ているならば当然の事なのだろう。国と人が離れすぎた世界、小さな国なら平和が訪れるのであろうかと、ふと思う。地球という星から国へ、国から、地方へ、地方から村へ、村から人へ。
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%94%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%A4%E3%83%B3
http://www.cinematopics.com/cinema/works/output2.php?oid=7272
http://www.youtube.com/watch?v=iGlgV4LCX2E&feature=related
http://www.youtube.com/watch?NR=1&feature=endscreen&v=qt8KWuM5_2I

1010 [物語]

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1010年 紫式部日記が完成した頃だという。2010年10月10日は、銭湯の日だという。1010がセントウと読めるからなのだそうだ。銭湯は今や貴重価値の時代だ。先日ある場所で、懐かしの銭湯のカランを手に入れた。プラスティックのピンクの温泉マークが刻まれたずっしりと重いカランだ。桃色のその姿から女湯で使われていたものだろうと、かってに想像している。この口から流れた大量の湯が、どれだけ多くの人々の身体を洗い流したのだろう。紫式部が使わなかったことだけは確かなのだ。
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温泉地で使われて此の地に来たものだったらと、また浪漫が膨らむ。妄想は罪になるまいと。この仲間のカラン達は何処へ消えていったのだろうか。妄想好きの人達に大切にされているであろうとは思えない。
銭湯と言えば、小学校5年生の頃、幼なじみの近所の女児に連れられて、
夕方の銭湯に出かけた。大きな吹き抜けの銭湯の天井と、番台のおばさんや硝子ごしの着衣場や、洗い場にこだまする桶の音を今でもおもいだす。
女湯の奥の洗い場から、幼なじみの彼女のおばさんが、「一緒にお風呂に入りにお出で!」と呼びかけられ、ぎょっとなり、彼女を風呂屋において驚いて逃げ帰った。記憶がある。白黒テレビは風呂屋にしかない時代の話だ。数日後学校で、五年生にもなって母親と風呂に入っている子がいると、教師から話があり、これ又ギョッとしてそれ以来母親と風呂に入る事を止めた。日本は伝統的な混浴の国だった頃が羨ましいと、子供ながらに思った。でも銭湯の女湯に、呼ばれても入る勇気は今でもない。
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カランを押すと、おおきくうなずくように動く様は生き物のようだ。
紅い雲や、白い雲、黒い雲をカランは流しだす。
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黙々ともくもくと雲を吐くカラン
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雲の姿は千変万化 風を孕むシーツの姿も雲のように軽やかだ
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天から見おろす 神の眼の視線を感じる 秋
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1776 [物語]

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1776年のこの年、この国は独立宣言をし、今使われているこの国の名称が決まったという。我が国『日本』が何時頃から使われたか、辞書で調べてみた。広辞苑電子辞書では、中国と修交した大化改新頃、東方すなわち日の本の意から「日本」と書いて「やまと」とよみ、奈良時代以降、ニホン、ニッポンと音読するようになった。とある。国語辞典では、オオヤマトと古くは言った大和朝廷の時代から、中国が倭といったために、倭(ヤマト)大倭(オオヤマト)と我が国を言い、その後日本(ヤマト)と記した。大化の改新の頃正式国号名として用いられた。明治22年制定の旧憲法では「大日本帝国」が国号として用いられた。とある。
大辞林では、聖徳太子が「日出処天子」と随に送った国書と記した発想から、「日本」を正式の国号としたのは大化頃からと思われている。
大化の改新は645年の事だ。
中国では国号が決まったのが1949年と言う。其の前に国の歴史はあるが、国号とは何か、『歴史を考えるヒント』網野善彦著/新潮選書を開いた。日本という地名、日本国の範囲、関東と関西、誤解された百姓、他。
アメリカの国号は独立記念日の1776年、中華民国は1949年、日本は645年が国号の決まった年なのだろうか。日本とは、どのようにして誕生した名前なのか気になります。
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2012年9月30日庭のハゼの盆栽が紅葉真っ盛りとなった。街道では遅かった彼岸花がまだ蕾の場所と、咲き誇る場所がある。
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2014 [物語]

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2014年世界で大きな出来事が起こると、電話があった。今にも明日にも世界で何か大きなことが起こることがあっても不思議ではない。大きな出来事とは人間にとってか、自然界に取ってか、判らない。大きいとは、何処からの大きさなのだろうか。空や海を見続けていると、大きな動きが絶えなく発生しているように見える。静かに見えて大きな動き、大きく動いているが静か。
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無常とは常が無き事という言葉が浮かぶ
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秋の気配が濃厚になっていく毎日です
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2001 [物語]

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20世紀は誰かが電話の時代と言っていた。21世紀は電子メールの時代とその人は。
携帯電話も話し言葉の音声による通話から、メールで文字や絵文字が並ぶ世界になった。
かっての読書は読み上げる事だったのが、黙読で見るという行為に変わった。
聴覚的な世界から、視覚的な文字や記号でのやり取りの世界に変わった。
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言葉にならない光景を 一枚携帯で贈る
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一枚の写真に様々なメセージが読み取れる
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世界は美しい
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世界は哀しみに満ちてもいる
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世界は言葉では言い尽くせない
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言葉にならない世界がある

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