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2012 [旅]

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2012先月の末の日、足利に出かけた。先月と言っても4月29日だから3日前。
足利学校は日本最古の学校と言う。學校と書く方が権威がよりありそう。足利學校は新緑のもと輝いていた。儒学の祖である孔子が祀られ、復元された方丈や庫裡が立派だった。論語抄金百円也を手にして返って来た。寺子屋で論語を読み上げる子供達の声が聞こえてくるような町だった。こんなに内陸の地に最古の学校が出来たのはどうしてか、ふと考えた。交通手段としては川が重要なものだったのだろう。鉄道で車窓に広がる風景を見ながら考えていた。
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何故か學文という場には、黒が似合うと思った。あまり色が入る世界は論理的な構築が出来ない気がした。俗世界は色彩に満ちているのか。流れさるアパートのまわりはコンクリート、外壁は無彩色の新建材、緑の国からモノクロームの世界へ
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車窓に広がる風景を見ていると厭きない。同じ列車に乗り合わせていても、眠っている人もあれば、新聞を読んでいる人、メールを見ている人、床を見ている人、窓の外を見ている人、様々な視線だ。同じ時代に生きていても人々は違う人生を生きている。あたりまえのことを考えながら足利への旅を楽しんだ。
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疾走する列車のまわりは麦畑、遼に霞む山なみ。
列車を見る鯉のぼりと少年の庭
今日散る花もある流れ去る庭
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スペイン風の家に和の民家の組み合わせ
家の中はどんな人が住み、どんな光景が広がっているのか
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マンションの窓には人生が一杯
布団や、今日の会話や、朝飯や、昼飯は何か、流れさる窓の部屋。

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夕焼けと夕陽に染まる海がいつかあった町へ帰って来た
燕が駅舎の中を滑走するように飛び交う
巣の為の台が6カ所設けられていた
彼等の旅は子育てが終われば又始まるのだろう
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燕来て夕陽の町で子を育て SILENT

學文とう名の門を春通る SILENT

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716 [旅]

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666年に高句麗の使者として来日した高麗 若光(こまのじゃっこう)は、 668年に唐と新羅の連合軍に高句麗が滅ぼされると帰国の機会を失った(日本書記)。
703年(大宝3年)には、文武天皇により高麗王の氏姓を賜ると有り、従五位下に叙された(続日本紀)。そして、716年(霊亀2年)に武蔵国(東山道)に高麗郡が設置された際に、都より同郡に下って郡司となったという(高麗神社の社伝等)。その時、若光一族は、海路で都より東海道沖を航海し、大磯に上陸した。それ以降、若光一族の一部は、神奈川の地に残り、この地を開拓した。
若光一族は、大磯に上陸した訳だから、大磯の傍を流れる金目川沿いに住んだのであろう。金目川とは「韓メ川」のことで、朝鮮人の住む集落を流れる川という意味である。従って、金目川が「韓川=神奈川」の語源になったことは間違いない。
以上/秦野エイト会HPよりhttp://www.ne.jp/asahi/davinci/code/history/hadano/index6.html#2
若光の大磯上陸はいつ頃か。666年に日本に使者として来て、703年高麗王の氏姓を文武天王より賜り、716年に高麗郡が設置され郡司となった。50年間の間になる。
「続日本紀」によれば、「716年5月に駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野7か国から高句麗人1,779人を武蔵国に移し、高麗郡を設置し た」とある。となれば716年以前に以上の七カ国に高句麗人が住んでいた事になる。渡来人と言っても高句麗の人々以外に、新羅他の国もあったわけで、渡来人同士の対立や友好関係もあったはずだ。大磯に上陸する時の目印になったのが高麗山だった。
相模湾から見ると大きな「山」の漢字が横たわるように見えている。平塚側からは花水橋附近で、「大きな女性の乳房かお尻のように綺麗に二つお椀を伏せたように並ぶ」山の姿に見える。漁師達は「やまだて」といって海の上の自分の船の位置を、どのように目印となる山や巨木が見えるかで自分の位置を知り、漁の場所を記憶したという。とにかく美しい山だ。
今から千三百年以上の昔に、現在の北朝鮮辺りから旅発って来た人々の事を思う。
どれほどの大きな船で、どれほどのものを運び、どれほどの人生を送ったのか。現地の言葉を知らぬ人々がどのようなコミニュケーションをしたのかも興味を惹かれる。若光王(じゃっこうのこしき)の墓と伝えられる、釜口古墳と呼ばれる円墳が高麗山の西の丘陵に或る。海からよく見える高台の一画である。墓に眠るのは誰なのか。高麗山の南の麓には高麗一族の墓も或る。彼等は此の地大磯からまっすぐ北の埼玉県高麗寺付近迄移住し開拓をおこなったという。
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高麗山の西の麓には仮粧坂があり、鎌倉時代には武士達が馬で遊びに来たという。化粧坂には虎御前が実在したという。今でも国道一号線化粧坂附近に「駒止橋」という地名が残る。三味線石橋という橋も近くにはあったという。三味線の渡来はいつの頃の事だったか。
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高麗山の東を流れる花水川、別名上流では、金目川。山には山桜、河の土手にはソメイヨシノの並木が走る。

のどかな川辺の光景も毎年堤防工事で姿を変えていく。画像には数年前のものも混じっています。
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国道一号線沿いの茅葺き民家。縁側と障子紙の白さが眩しい季節だ。
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1995 [旅]

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1995年3月20日 その日の私はいつも通り東京にある会社に出勤した。午前九時過ぎ銀座線神田駅から地下鉄で日本橋方面にある会社まで、用事が有り出かけた。神田の会社に戻ったのは午前十時半くらいだったのだろうか。此の日の午前中サリンが都内の何カ所かで散撒かれた。ニュースを知ったのは何時頃だったのか記憶にない。昼のニュースであったのか。当時従姉妹が築地にある聖路加ビルのオフィスに職場があった。すぐに電話した事を覚えている。通勤の帰りに朝の銀座線では乗った路線が、サリン事件関連近くだったならばと考えた事だけ覚えている。人は何かが直ぐ近くで起こっても、知らぬまま、時が過ぎるのだろうか。今から十七年前の明日20日に起こった事を思いだしている。この日の夕方思った事は「また翳めて何か巨大なものとすれ違ってしまった傍観者の感覚が起こったということ」
此の日から、2ヶ月前の1月16日の夕方山陽線の三ノ宮駅を通過して、加古川駅に私は向かっていた。其の晩三ノ宮駅前のビジネスホテルに泊まろうかとも考えていたのだが疲れがあってか、仕事に直ぐ出かけられる加古川のホテルを予約した。電車の中で四人がけのシートに新大阪から一緒にのった親子ずれ3人がいたお嬢さんの年齢は小学校高学年くらいだろうか。両親も40代後半までいってなかったような記憶がある。聞くともなしに彼等の会話が聴こえて来た。その日は日曜日であった。住宅展示場を見て来た話を家族はしていた。其の会話からは中学に通うのに新しい家を新しい場所につくるのか、立て直すのかそんな一家のように思えた。彼等は三ノ宮の駅で降りていった。彼等は買い物で其の駅に降りたのか、それとも駅前から歩いて、バスで家路に向かったのか判らない。彼らの家の場所も、翌朝あの家族がどうなったかも判らない。確実に言えるのは其の明日の朝神戸地方を巨大地震が襲い、多くの惨状が伝えられたということ。それから数ヶ月でオーム事件が東京で起こった。昨年の東北大震災と原発事故に何か非常に近いもの、又は同じではないかという事を今朝は感じている。
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最近発売されている朝日ジャーナル臨時増刊号の表紙、この国は何故、原発賛否の国民投票をしないのか?その事に大きな不満を感じる。表紙は原発を覆っていた建屋の四角い箱の無味乾燥なデザイン。これをみるとあのオーム事件のサティアンとハリボテの仏像が公開されたときを思いだす。確かあのサティアンの中の製造工場に張り巡らされたパイプ類から受ける異常な感覚、石油プラントなどでもあたりまえの光景なのだろうが、原発の建屋に見る災害後の光景でも似たような恐怖を思える。見えない世界。見えない世界を表現するのに人はあらゆる方法を考えて来た。文字の発明、写真術の発明、情報伝達の発明、科学技術の推進、経済の発展とお金。国家という存在が転覆しかけているサティアンと原発建屋の現在。何か近いものを感じてしまうのは私だけでしょうか。豊かさとは何なのでしょうか。
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情報の歴史と言う分厚い年表を愛読しています。人類1万年の情報の歴史、7000万年前の霊長類の分化から頁は始まっています。最近は1995年で編集を終え、その後の頁は白紙です。オームというあの衝撃の日から17年自分は何をして来たのかと自問したくなります。あの日、あの年何をしていたのか。先ずはそこから、、、、。
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1995年4月大阪に横山フック知事、東京に青島幸男都知事誕生。ニフティサーブユーザー100満人突破。デジタルカメラ、キャノンとコダックでカメラ開発。チェチェン紛争。超大型ブラックホール発見相次ぐ。PHS登場。
そうこの年、パソコン通信やってました。ニフティでした。パソコンはあのアップルのパフォーマー。携帯はPHSでした。携帯の電磁波が怖くてイヤホンマイク使ってました。アメリカの電話局では妊娠後電磁波のため異常がおきるケースが続出といわれていました。日本の携帯には頭から携帯本体を数十センチ離してなどは書かれていませんでした。今も書かれていないのでしょうね。煙草はクールをまだ吸っていた頃かもしれません。今は禁煙成功15年です。
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1995年の夏休み、我が家の兄弟が佐渡へ二人で旅行体験をしました。兄は16歳、弟は11歳でした。二人は佐渡の知人宅に世話になり、貴重な体験をしました。
兄はそれから5年後インドに一人で出かけ一年間各地を放浪し、現在の彼にとって人生で貴重な体験をしています。弟は兄の背中を見るように20歳で上海迄船で渡りシルクロードとアジアの諸国を巡りウイーン迄1年間の旅をしています。
世界を見て、見知らぬ町の人と触れ合う機会を得たことは、二人の人生のいい糧になる事を願っているのですが。今朝佐渡の知人に手紙を書きました。昨日の事、今日の事、明日を思う事など。
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震災から一年が過ぎ、ようやく近くの海に散歩することが出来るようになりました。気持ちが脚を海に近づけさせなかったのです。テレビで見た津波、テレビで見たニューヨークの911、テレビで見た原発のメルトダウン。世界は恐怖に満ちた世界と隣り合わせなのですね。穏やかな日常の有難さ。見方次第で世界は絶望にも希望にもなるはずです。絶望は伝染します。希望を伝染させなければいけないと強く思います。画像は昨日の海から拾って来たものたち。
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冬の光も 春の日溜まりの日射しに変わってきました
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光を求めて 
闇が濃くなる程
光は輝きを増していく
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種差 [旅]

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青森は八戸の旅の続きです。
夕方の種差海岸へ向いました。八戸の市内を抜けて、種差海岸迄向う途中雨雲が海上を移動しています。八戸の陸奥湊では市場で海猫を見かけましたが、かなり用心深い鳥でした。
一面の芝生が美しい種差海岸。たねさしという地名はアイヌ語なのでしょう。江差や厚岸といった北海道の地名が浮かびます。そう此処から青森迄は百キロ、東京から約四百キロの地点です。
この海岸では自分達の縄張りのせいか海猫たちは側に近づいても驚きません。三月のあの日鴎や海猫たちが荒れ狂う海上を飛び交っていたテレビの画面を鮮明に思いだします。
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降りしきる雨を車の中から白い仔犬が見つめていました。
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流れる雲がどんどん北へ向います
そう台風が通過してまだ間もない日でした
夕陽が海岸を照らし出しました
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吹雪に閉ざされる海岸が眼を閉じれば見えてきます
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眼を開けると大きな虹が海の上にかかっていました
秋の虹は夕陽がスポットライトのように浮かび上がっています
希望の虹
此処で出会えたことに感謝したい気持ちでした
食事をした店でも、店の人が外に出て「こないだよりも大きな虹だね」と言ってます。
数日前にも虹が出ている様です。
雨が降らないと虹は見えない!!
昨日のテレビの人の言葉が甦ってきます。
半島の様な地形の道が光っていた帰路の光景です。
青森県八戸種差海岸にて
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世界の黄昏れに [旅]

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平成22年11月17日湘南地方の黄昏れ
かつて一日の始まりは黄昏れからだった
婚礼も 瞑想することも たそがれ時から始まった
彼誰時に一日のはじまりがある
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この美しきものたち [旅]

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この美しきモノたち
近づく迄胸が高鳴り 何故か喜ばしい光景だった
光と影が戯れている 静寂な世界なのだが
ささやきがきこえた ようなきがして うれしかった
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空には雲が猛烈な早さで動いていた
自分の今いる星が猛烈な早さで動いているのだと光は言った
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二世市川団十郎 [旅]

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享保十八年(1733)九月の晦日に江戸を経ち、相模の国は大磯にある鴫立庵を訪れた一行があった。『西行堂の傍らに古少長と予か亡父の塔あり 其の石の裏に句あり』

恋やせむ弥陀や唱むけふの月ーーーーー古少長
新月や苦楽順逆風払うーーーーーーーー古才牛

古少長とは歌舞伎役者の中村七三郎の俳号で「古」とつけているのは、俳号も同じ少長を継いだ現役の中村七三郎と区別して先代を意味している。古才牛は二世市川団十郎の実父、初代市川団十郎。鴫立庵に初代団十郎の碑があるのは、大磯が曾我兄弟ゆかりの地であり、この史実に題をとった狂言の曾我五郎が初代のあたり役だったからだ。
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旅の一行とは箱根へ向う二代目市川団十郎と俳句の師匠、巽湖十に、団十郎の妻お才(俳号翠扇)、十三歳の養子升五郎、十一歳の娘錦女、他に家僕もいたのかもしれない。以上平凡社刊の「巨人たちの俳句」磯辺勝著から。
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松尾芭蕉の弟子であった宝井其角の弟子の一人、柳川琴風の墓も鴫立庵にあり、琴風は享保十七年の去年に亡くなっているという。
二世団十郎はここで、『そそろに哀なる事おほかり』と書き綴っている。
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現在の鴫立庵にでかけ初代団十郎の句碑と、琴風の墓を探した。
琴風の墓は鴫立庵で最も古いと言われる五智如来の石像の裏側にひっそりとあった。1732年の夏に建てられたものか1733年二世団十郎の旅の年の夏のものであろう。碑の摩滅は激しく湿気の多い庵内の環境にも、三百年近い月日は忘却の彼方へ誘っているのだろう。初代団十郎の碑は見つからなかった。唯一文字『諧』問いう文字が残っていた碑が、琴風の石碑と同じ様な大きさで怪しまれたが、何もわからない。
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鴫立庵は西行法師を忍び 伊勢の人大淀の三千風が草庵を開いたのが1664年で最初。
鴫立川が相模灘に注ぐ、鎌倉時代は入り江になり船も停泊いたような港のそばに鴫立庵は造られたと云う。『こゝろなき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ』の場所という。かって鴫立庵の隣りに祖父樺山資紀が二松庵という別荘を構え、五歳の頃の白洲正子が遊んだのが鴫立庵境内だったという。彼女をして『鴫立沢は大磯のあそこでしかない』と言わしめた場所。歌枕としての聖地の気配が濃厚に漂っている。大きなヤブ蚊と縞蚊が跋扈していた。
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大淀の三千風が箱根より運んだという五智如来像は今も庵の奥に五体鎮座される。
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多くの東海道を旅するモノたちや 俳諧をされる人々の聖地だったこの場所は今も聖域の気配が漂う場所である。

天高く鳥かげ星のごとき [旅]

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天高く舞い上がる鳥のかげに秋を見た
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空が膨張を始めた
空き家がたくさん誕生
満たされぬ憶いは
拡散する
それでよかった
広がることは
こころの解放
夏に解き放たれて
上昇する

西行の道 [旅]

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青蛙東北本線鉄路かな
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一泊二日の行程で東北本線を旅してきた。
西行法師がかつて奥州平泉迄、芭蕉翁が奥の細道を訪ねた彼の地へ。
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雨模様の関東を抜けると白河辺りでは前線の先端にあたるような雲が流れていく。
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仙台は杜の都 高層のマンション群も市街では林立していた。
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東北も濃き緑の稲が色づいて美しいが、気温が高すぎて稲の生育にはよくないようだ。
圧倒的な入道雲に追われて家路に着いた。
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お歯黒蜻蛉にも出会えた。オニヤンマやアオダイショウにもであったこの夏。
殆どが車窓からの流れる雲と 稲田の撮影で楽しめた。
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