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十一月二十三日 [山]

箱根仙石原の紅葉、発電所の脇に貯水槽に溜まった落ち葉を取り出すコンベアーが作動していた。
枯れ葉たちは木から大地に落ち、循環している。山一つで大量の落ち葉だろう。その重さを思うと気が遠くなる循環。赤い葉や黄色い葉の舞う姿に生命の循環を見る。


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        舞い落ちる冬紅葉の旅の長さかな     むおん









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  カサ コソ サササ  スー ハラリ  サラサラ コソ ガサ   シーーーーーーン






十一月十九日 [山]

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遠い昔、自分が中学生の頃、午後三時からか毎日洋画劇場が上演されていた。淀川さんの解説で同じ映画が一週間も繰り返し見られた気がする。かれこれ半世紀も前の話で、当時はテレビのコンテンツも少なかったのだろう。イタリア映画「自転車泥棒」が毎日流れ大変印象に残った気がする。Amazonでプライム会員は映画見放題、曲も数え切れないだけ聴き放題と今はある。同じコンテンツを繰り返し流していた時代。数秒ごとに世界が変わる今の時代。激しいストレスと、何かシリアスに見えない希望が交差する。
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          ITも人も世界も自然の中に秋周る   むおん










十一月十八日 [山]

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山あいの紅葉と小川の青さが和む光景。
明治23年11月18日の今日、湘南大磯にてマンダラ大漁。相場が下落。マンダラという魚は何か?
北陸方面では、カツオのことをマンダラと呼ぶとあるので、湘南でもカツオを呼んだのだろうか。

昭和2年水野文相は、山王町化粧坂付近の900余坪に別荘新築に着手。大工は西村常吉氏である。
昭和25年には、長者町を町名変更して、旭ヶ丘へ変更計画の予定があったという。時代の流れで町名変更の予定、確かに、岡や丘、台がつく地名が昭和に入り多く誕生した。多くは丘陵地帯を切り開くニュウタウン計画で誕生した町名だった。

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             町名は冬紅葉散る紅葉台  むおん






十一月十六日 [山]

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仙石原ガラスの森美術館からは、噴煙を上げる大涌谷の光景がよく見える。きらめくのガラスのオーナメントと白い噴煙の遠望。秋の日差しの中に浮かび上がっていた。黄色い紅葉に紅い紅葉、高原の空気はひんやりと気持ちが良かった。



            ギヤマンの秋の葉微動我の空  ムオン




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十一月十五日 [山]

一昨日は箱根仙石原の湿性花園にいた。湿原からは仙石原のススキの高原とつながり雄大な光景が見える。宿泊した日本旅館には30名のフランスからの観光客がいた。昨日のパリでの多発テロを旅先の日本で悲しみ驚いただろう。我が国でもいつかはテロが起こるのだろうか。断固テロには屈しないという、各国や我が国の代表達の言葉が何か虚しく聞こえる。「眼には眼を」世界をキナ臭く、よりしているのは誰達なのか深く考えたい。湿原の秋は静かに燃え尽きようとしていた。

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     秋の色から次の季節へ塗り替える空  むおん


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ハマナスの紅葉が美しかった。世界の総ての色見本が葉の上に展開しているかのように。そこには人間達の争いの色はなかった。

十一月十三日 [山]

箱根仙石原に昨日は居た。数年ぶりの箱根湿性花園のススキ野原を歩く。何か雪の季節を感じられる草原だった。雪の季節には一面の銀世界が広がるのだろう。

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             花野行く風の姿や西東   無音










燃えるような紅葉と、屹立する竹林が、仙石原にあった。枯れきったススキ野原の一劃や足元にも花野の痕跡があり、一方で燃え盛る季節に変わらぬ風情の竹林と多彩な季節。






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     炎揺らぎ聖夜まで一直線の音     むおん







十一月十二日 [山]

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今月の三日箱根仙石原から見た金時山の山頂付近。35mm換算で焦点距離1000ミリの望遠レンズが捉えた世界。カメラのファインダーでは、人がいるのを気づかなかったがパソコンの拡大画面ではみることができた。鳥の眼の世界か。

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見えぬ世界観える世界に秋深く ムオン






十一月五日 [山]

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仙石原高原のススキを遠望した。ススキ野原の中央に大きな遊歩道が作られ何か巨大な溝のように見える。この溝がなければススキ野原は何か自然に見える。自然を求めて人々が集まり何か自然でない光景を作り出す。この広大なススキが原も人間の手によって作り出したものなのだろうか。

観光する人々の多さに、ふと「二つの観光」という最近読んだデータを思い出した。今から百年くらい前の日本と台湾、二つの国は二つの観光が存在したという。一つは台湾から少数民族の指導者たちが植民地統治国の日本へ、その国力を見せつけより強力に支配するために、日本への観光をするよう招いたという。少数民族の指導者たちは日本という国をどう見たのだろう。その指導者の一人モーナ・ルダオは日本の圧倒的な人間の数に驚いたという。河原の小石のように数え切れない人間が都市という世界にいる。この数の多さには、自分たち少数民族では到底太刀打ちできないと思ったという。
そして彼の故郷台湾の自然の美しさを求めて日本の文化人や教養者が、台湾の観光を楽しんだという。
二つの観光は、今の世界でもどこかで行われているのか。ふと気になった。
工場視察や工場見学、都会の整備状況視察の人々の話はよく聞く話ですが。

もう一つ、旅とは知らないもの未知なるものに出会うこと、といった側面以外で、自分と同じ世界に出会う喜びというエッセーを読みました。知らないことに出会うこと。知っていることに出会う喜び。
世界に同じように喜びや悲しみを共有
していることを体験できる旅、どちらも旅の醍醐味と感じます。
小さな散歩でも、何か遠い世界にやってきたような思いを描くことがあります。

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            秋へと車冬へと人の群れ急ぐ  むおん













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十月三十日 [山]

この町から眺められる富士の姿は、その場所の地名から何か想いがより深まる。台町の坂から、坂を登りながら大きな富士の山容が見られる光景は圧巻だ。その先2キロほど切り通し坂を下り始め、切り通しの狭い幅の暗がりから、いきなり広がる坂の下の彼方に大きな富士が裾野を広げる光景も圧倒される。切り通しの左手の住人が、かって吉田茂首相の本邸だったことを知る人も今は少ない。その切り通しの左手の門を入ると吉田邸の二階の窓から松の林の彼方に富士が一望できた。切り通しの右手は三井高棟別荘があり三階の楼閣からは富士の山容が見られたという。この切り通しからの富士を「下がり富士」。台町の坂の富士を「上り富士」と昔の人は言っていたという。切り通しを超え、右手に旧東海道があり、その古道を行くと左手に富士が見えてくるという。東海道でも道の左側に富士が展望できる場所は少なく、旅人は「左富士」とそこから見える富士を呼んだという。数日前の初冠雪も少し溶け、富士の頭も白さが消えた上り富士の前に、何か電線がうるさい。「電線富士」と呼ぼうか。
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          電線に背伸びする富士秋ふふふ     むおん









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いずれも台町の坂より

十月十七日 [山]

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アオバトの飛行はいつまで続くのだろう。数年前渡りに出発しなかったアオバトの声を12月の初めに聞いた。温暖化が進むと渡りに機会を逃す鳥たちも出てくるのかもしれない。富士の雪は根雪になるのだろうか。数週間気温が高い日が続き今年の紅葉は遅れる模様と天気予報にあった。





          富士の峯に冬降りけり刻々と    無音







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