1983 [遊び]
1983年頃に、湘南のこの町に三年間程住んだ。当時も今も駅の周辺はそれほど変わっていない。燕が毎年やって来て駅舎の正面から改札口周辺の大きな吹き抜けのある空間の柱に巣を作っていた。今も巣の下にビニール傘が逆さに吊るされ、乗降客に彼等の落とし物がかからないように配慮されている。確かに最近燕の姿を見る機会も、雀の姿も減った気がする。あたりまえだった光景が、本当は大きく変わって、二度と同じ世界は繰り返されていないのが自然の姿なのだろう。
1983年頃は子供が小さかったので駅周辺を散歩して歩いた。当時はビデオカメラを結構使っていたので、遊びとして撮影したかった事を思い出した。子供の目線の高さから見た光景を撮影しようと思ったり。子供の成長記録に三分だけ毎日ビデオで撮って60分で一ヶ月の内容にしようと思ったりしていた。どちらも企画倒れに終わったのだが。
最近は犬の目線の高さで、町を歩いてみたらと実験してみた。思ったより新鮮な光景が広がる。町には結構いろんなものが落ちている。プランターで育てているミニトマトが路上に転がっていたり、落花や落実、落葉の世界がひろがる。流石に落人には出会っていないが。
落石、落木、には注意しよう。路地裏の光景が楽しく見えて来る発見が出来た。路地が広がり舗装された道は何故か同じで楽しくない。路地のが生活感に溢れているのはなぜなのだろう。人間のスケールに寄添うサイズなんだろう。
下町の路地を抜けると海に出る
人間のスケールが海では途端に小さくなる。それが又心地よい。
海の幸を使い込んだいつもの七輪で焼く。
至福の時間
初夏は好きだが盛夏は苦手
五月の風が隣りの月の水無月へ吹き始めている
紅葉の種子の飛行も始まる気配
昭和30年代に撮られた此の町のある場所にでかけた。その光景と同じであろう場所から最近写真を撮った。右手の曲がった松のかたち、左手の松林、正面坂の上に見える高麗山のかたち、総てが一致すると愉快な気持ちになって来る。変わらないものと変わるもの。世界は変わりすぎるのも困るが少しも変わらないのは少しだけ切なくなる。
民俗学者の宮本常一さんの言葉が聴こえて来る。『いったい進歩というのは何であろうか。(中略)失われるものがすべて不要であり、時代遅れのものであったのだろうか。進歩に対する迷信が、退歩しつつあるものを進歩と誤解し、時にはそれが人間でなく生きとし生けるものを絶滅にさえ向かわしめつつあるのではないかと思うときがある』と書かれている。退歩を進歩と誤解する怖さ。
大正時代初期の大磯駅前周辺の写真がありました。今から百年前の光景と2012年の現在見比べてみましょう。自然も人も変わらぬもの失ったものも。
ビー玉 [遊び]
最近ビー玉は B玉であることを知った。
ラムネの瓶のガラス玉は完全な球に近いA玉が使われ
B格の玉が ビー玉と呼ばれる由来なのだそうだ
画像は最近手に入れた フランスのビー玉 材質は天然石とか
色も着色しない石の色なのか
オランダの運河辺りでは浚うと出てくるようだ。
不思議な風化した色合いが微妙で心を誘う
ビー玉の歴史はかなり古いらしい
木の実や小石が原点なのは何となくわかる気がする
数年前に路上で拾った溶接でカットされた鉄くず
その錆色と飴の様な切り口が魅力で
手元にある
その日は
雨に濡れ
ことさら路上の宝石のようだった
海辺で出会った天神様の住まい
確か此の中にてんじんさんが
おられた筈
今は留守か
どなたかが梅干しの種は海洋投棄されていた時代があると書かれていた
今は燃やされているのか
風化した種は
軽い
木の葉が燃えるように路上にあった
下ばかり見て歩いている自分なのか
たまには空を見よう
材木店で昔使用されていたブリキの型
墨で木材に文字を写したそうだ
型になるその板の窶れがいい
赤と黒の墨流しのスケッチブック
身の回りのちいさな希望