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十二月三日 [人]

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顔認識ソフトは、恐ろしい程過去の人物の写真でも認識して、誰ですかと聞いてくる。
人のシルエットでも何れかなりの認識が可能な時代が来るのだろう。恐るべし。恐るべし。

十一月十七日 [人]

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パリで今何が起こりどうなっていくのか?
そしてシリアの人々は、、、、
パリの報復というが
ロシアも加わった勇士連合のシリアへの空爆は2000回を越え、空爆によって市井の人々を含む50万人以上の人々が犠牲になっていると言われる。
今回パリのテロで亡くなった人が200人近くとすれば人命軽視指数は1対2500となる。
当然パリのテロを肯定することは出来ないが、私たちはパリで犠牲になった人々とともにシリアにおける戦闘員以外の市井の人々の犠牲にも目を向ける必要がある。

今回パリで起こったエマージェンシーはシリアでは毎日起こっていることなのである。
その結果、ISの脅威から逃れる以上に空爆によって、大量の難民がトルコや欧州を目指したわけだ。
つまり勇士連合国は自らの所業によって大量のシリア難民を自国へと導き寄せているのである。
このような流れの中でパリでテロが発生し、そのテロリストの傍らにシリア難民のパスポートが転がっていたという誰が発信したかわからぬ情報はきわめて出来が悪い。

テロを行うのに自分のアイデンティティを所有する間抜けはこの世にはいない。
このガセ情報によっておそらくシリア難民に対する防御と排斥は欧州において高まるだろう。
空爆によって叩き出され、その空爆国からさらに追い払われるやもしれぬシリアの無辜の民はいったいどこに行くのだ。http://www.fujiwarashinya.com/talk/

以上は、藤原新也氏のコメント『新也トーク』からの引用だ。911が発生してアメリカの女性評論家スーザン・ソンタグ氏が、事件の真相にある深い洞察を世間に問うことがあった。「これは文明や自由や人間性に対する攻撃ではない。自称『超大国』への攻撃だ」と断じたうえで、ハイジャック犯より「反撃されない高い空から攻撃する者(米兵)の方が卑劣」と痛烈に自国を批判した。それは見る側の視点と、深い祈りがどれだけあるのかという尺度の違いを感じた。

恐怖はお互いを傷つけ、憎しみは増長することしか望まない。深く深く静かに考える時間が必要と感じた。









             どんな闇も光輝く秋の陽を求む  ムオン





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               生き御霊眼を閉じて秋の夢   無音






九月十八日 [人]

昨日の参議院の状況をテレビで見て、議長が賛成派からも反対派からも持ち上げられたり、こき下ろされたり厳しい立場の表情を映し出していた。議員の一人が「議長あなたは何処からかの圧力に屈したのですか?」と叫んだのと、強行採決の場に「自民党は今死んだ!」の議場での紙の文字が強烈な印象として残った。
久しぶりに犬笛を磨いた。人の耳には聞こえにくい周波数の犬笛。人間たちの叫びが犬たちや人の他の生き物に、数100倍数1000倍の音となって聞こえているのだろう。
人は、近ずく未来の音が聞こえないと言ってはならない。耳をすませば聞こえない音も見えるのだから。

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新也トークからの引用 以下ネットから

今週の安保法制(集団的自衛権)成立に向けて視野に入れておくべきこと。(CatWalkより転載)
東日本大震災の折もそうだが、今回の鬼怒川水害においていつもながら献身的な活動をする自衛隊員の姿を見ながら、不穏な映像が頭を過ぎってしまう。

おそらく今週強行採決によって成立する集団的自衛権によってこれらの一途な青年たちが幾年か後にはアメリカの補填兵として戦争に加担させられ、犬死にする姿と二重写しに見えてしまうのである。

安倍政権というのは先の参議院選のおりにも「ねじれ国会」という造語を編み出したように、小手先の言葉の詐術に長けており、この集団的自衛権という言葉もまた詐術のひとつだった。

いかにも自分の国を守るための同盟と聞こえて来る集団的自衛権(積極的平和主義)という言葉も政権側が用意した洗脳用語であり、実情は「集団的進攻権」「集団的交戦権」あるいは「集団的共闘権」というべきものである。

そしてそういった用語変換をするまでもなく、ある意味で「集団的自衛権」という言葉の中にすでにアメリカとの共闘が含まれているとも言える。

私たちがこれまで使って来ている集団的自衛権という言葉は“日本を守る”が主語となったあくまで日本側からの視点であり、逆の視点が抜け落ちているのである。

つまりアメリカ側の主語として集団的自衛権という言葉を解釈するなら“アメリカを守る”ための協定となるわけであり、つまりアメリカの戦争に加担するという意味になるわけだ。

その他者側からの視点が抜け落ちているのがいかにも平和ボケ国家らしい。

そのようにアメリカにおいてもこれがアメリカを守る集団的自衛権であることをはっきりと指し示したのが4月29日のアメリカ議会における安倍演説ののち、5月13日に出たアメリカの右派新聞、星条旗新聞の記事だった。

安倍はオスプレイ購入3、600億のご褒美によってアメリカ議会演説を与えられ、得意満面で次のような背中がむずがゆくなるような結びの言葉を述べている。

「米国が世界に与える最良の資産、それは、昔も、今も、将来も、希望であった、希望である、希望でなくてはなりません。米国国民を代表する皆様。私たちの同盟を“希望の同盟”と呼びましょう。アメリカと日本、力を合わせ、世界をもっとはるかに良い場所にしていこうではありませんか。“希望の同盟!”。一緒でなら、きっとできます。ありがとうございました。」

この言葉に隠れている本質は以下のようになる。

「米国が世界に与えた罪科、それは、昔も、今も、将来も、他国における戦争であった、戦争である、そして覇権でなくてはなりません。米国国民を代表する皆様。私たちの同盟を“戦争のための同盟”と呼びましょう。アメリカと日本、力を合わせ、世界をもっとはるかにアメリカ的なる場所にしていこうではありませんか。“戦争の同盟!”。一緒でなら、きっとできます。ありがとうございました。」

安倍演説から2週間後の5月13日、この協定がアメリカのものであることを証明するアメリカの右派新聞「星条旗新聞」においてあまりにも露骨な、というよりいかにもアメリカ人らしい他者を無視した無邪気な、本音論評が出た。

すでにアメリカでは来年度2016年の国防予算と兵士4万人の削減が日本の安保法制(集団的自衛権)成立を前提に組まれているとそこには書かれている。

戦費拡大に困窮したアメリカは軍の海外活動を縮小し、軍事力は海軍と空軍だけに集中。

縮小する陸軍は日本の自衛隊に肩代わりさせるという内容になっているのである。

一見難航しているように見える安保法制の審議についてもご丁寧に「野党がいかに激しく反発しても関係なく、与党は法案を可決するために十分な議席を持っています」という旨の記述まである。

http://www.stripes.com/news/pacific/us-defense-budget-already-counting-on-japan-self-defense-plan-1.346012

兵士4万人の削減(文官1万7000人も削減)というのは軍事面に明るい人に聞くと兵士の数は49万人から約45万人に減り、第2次世界大戦以降最低の水準になるということでこれは大変なことらしい。

安倍はアメリカ艦船に乗せられて海外から避難する日本家族などのイラストで“甘っちょろい”自衛論を展開したわけだが、このアメリカという国は非常に緻密かつ冷酷に日本の若者の徴用計画を着々と練っていたわけだ。















         犬笛で九月の叫びきくカラス     無音










九月三日 [人]

模倣問題で世間は揺れている。デザインの模倣に関しては古くから争いがあった。そもそもオリジナルとは何なのだろうか。世の中に存在するもので占有が限られているものは存在するんだろうか。人は模倣して文明や文化を発展させてきた。オリジナリティを出すために数年間の時間を費やそうと、一瞬のアイデアで何かを生み出そうと、創作の時間がその保証にはならない。しかし国際的にオリジナルであることを証明する機関があっても、それがすべてではない。
ことが起こって、どう対処したかのプロセスが見えてこない。コピーであるとする相手が要求したことは何だったのか。創作のオリジナルは間違いないと制作者側がいいながら、家族や仲間のために今回の受賞は辞退するとは、自主的に制作者が本音としていったことなのか。
オリンピックは国家の祭典から、企業の祭典になって久しい。企業の経済力を伸ばす祭典が個人の家族や仲間の人権を侵害していいものではない。

経済という魔物が、泥沼化する人間の欲望を前面に噴出させているように感じるニュースだ。
専門家たちにはオリジナリティが守られているとの主張が、一般大衆には一見して模倣に見えるという主張の勢力が強いので今回の採用を中止とした、という主張は何か甘すぎる。
専門家集団は、少数派であっても何故その主張を強め持続しないのか。あまりにも悲しい。
世間が認めないから、中止にした。制作者が言ったから幕を引いた。
なんとも無責任体制の決定だ。おまけに新しい応募の条件は門戸を広げ応募者の数を増やすようにするという。なんとも専門家という人たちを見くびった決定だ。応募が多けりゃいいのかな。応募作品全部を採用して変わる代わりにマークを変えたらどうかね。この際。ある企業が数秒ごとにロゴが変化していくスタイルの実験をしたのを見たコトがある。今の時代複数のロゴマークでも違和感なし。おまけに印刷物はすべて止めて、ウェッブ上のみで展開なんて言ったら画期的。損失コストも激減するし。


日本のデザインや文化に対する底の浅さを感じ、嫌になるニュースだ。

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長唄用の三味線の撥。プラスティックなのだが実用的な機能は不明だが、その素材の色と透けた厚みからくるグラデーションが美しい。象牙の撥に比べコストは安いが美しく感じるものは好きだ。模倣の一つの仕組みを見る思いがした。

今回の模倣問題のデザイン、人間が考える問題は美しいという一つの回答だと思う。
作曲者が別人で大騒ぎになった事件、その曲が美しいかより、人が問題になった。ものよりもコトが重視される時代。今回のデザイン類似事件も人間同士のコトの処理が重要なのだろう。
デザインの類似は、今に限らずたくさん発生する。それをどう処理してきたのか。これからどうしていくのかが問われるニュースと深く思った。

追伸:首都の代表が問題の模倣事件のデザイン処理がされた紙袋を持って、紙袋の機能は無くなっていない。この紙袋は最大限に有効に使います。といっていた。何かおかしい。機能は袋だけで無く、デザインにもあるのだろうに。何か情報時代に袋はまだ使えますと言ったその姿に違和感が残った。この袋に「これは事情がありデザイン中止となった袋です」とでもシールをつけるのだろうか。




     

      ものまね止めたと日本人また萎縮      むおん






八月二十五日 [人]

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奥州平泉の中尊寺境内の松尾芭蕉像。月見坂の表参道を辿り、金色堂の奥にその人は立っていた。俳諧とは俳句の前に言われていた姿、連歌の中の発句が俳句として独立して現代に至ったのだそうだが、俳諧や俳句の「俳」とは、わざおぎと読み、俳優の俳でもあり、人に非ずというそのカタチが何か凄まじい。俳人芭蕉翁は、旅に病んで枯野を駆け巡った。野分の風がふさわしくその辺りに吹き始めた日の撮影です。




 黄金の野分の風も御堂より  むおん





八月二十三日 [人]

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八月二十一日
奥州平泉の中尊寺に行ってきました。参道にて、出会った青年。すれ違い思わず振り返ってシャッターを切りました。その容姿が其処の場の雰囲気似合いすぎていたからです。
武蔵坊弁慶のような、又は主君源義経その人の生まれ変わりのようなきりりとした気配が、彼の周りに漂っていました。白いタックトップと腰に巻きつけた小紋柄のシャツが見事にな佇まいを感じさせたのです。花道を歩くように去っていった彼の姿が今でも印象的に脳裏にあります。
旅での一瞬の光景、いいものです。


明治22年から42年に渡る20年間、湘南大磯町協議日取調書の記載に、「風祭り」とあり、高麗山地区の行事として、農作物の豊穣と加護を求める幻の行事があったようだ。祭日は8月23日。祭りの片鱗とか古老は知らないだろうか、風の祭り、良き響きだ。神奈川県小田原の箱根登山鉄道駅名に「風祭」という名の駅がある。かざまつり と呼ぶ。


     鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分哉       与謝蕪村



     風祭六根清浄天に地に          五十野無音



     呪う人は好きな人なり紅芙蓉       長谷川かな女





七月三十一日 [人]

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『舞踏とは命がけで突っ立った死体』とは舞踏家土方巽の言葉だそうである。
ヒトが立つということは、地球の重力に対し常に関係性を持ち生きるための状態だ。
卵を立てると言う行為に興味がある。生卵は鏡の上でなぜ立つのか。それは卵が生きているからか?一晩おいても卵は立ちつずけているという驚異。そんなことをウインドー越しの一着のドレスに思った。『舞踏とは命がけで突っ立った死体』とはキリストでもあるというのだが。

昭和30年(1955)湘南大磯で仮想大行進開かれ、20万人の人出。宣伝カーはラディオ東京、日活、ライオン歯磨き、明治製菓等。仮装コンクール一位の賞金は一万円。
ヒトには古代から変身願望が潜むのか。

七月十一日 [人]

クローズアップで見た足元には何か、人には手の表情同様に足が持つ表情があるようだ。
姿勢、歩きかた、一瞬のリズム、タップを踏むような、つま先の表情。
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明治36年湘南大磯の海水浴場開き、余興に相撲、花火等。宿泊料45-65銭。昼食料は20-30銭。
昼食はどんなものだったのか。海水茶屋での料金か。今海の家に入るといくらかかるのか。色とりどりのテントが並ぶ湘南の海水浴場。テント一張りの料金で、家族四人の海の家使用料が等しいような気もするのだが。車も使わずテントを畳んで電車で日帰りできる時代。嗚呼。

六月二十四日 [人]

ピクトグラムと呼ばれる、公共物のサインがある。このサインに関して面白い記事を見た。以下

男性はズボンで、女性はスカート。昔から、世界中のどこに行っても変わらないトイレのピクトグラムは、本当にそのかたちである必要があるのだろう? そう考えたロンドンのデザインスタジオがつくり出したのは、「スカートを履かない」女性用ピクトグラムだった。

遠い昔男達は、スカートを履き、タイツも履いていた。男はパンツ、女はスカートの時代は今は大きく変わったのだろうか。男と女を分けるサインが面白い。
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昭和3年 湘南大磯に此の日、10銭均一乗り合い自動車。貸しボート、子供プールなども設置。今ならコミニュティバス均一100円、レンタサイクル、ペット用プールなどといったところか。
昭和48年西友ストアー大磯店開業。此のころ通販のシアーズロバックのカタログに眼を見張っていた時代。

五月三十日 [人]

狩猟民族は猟場は、点として認識し、土地の面積や境界は重要ではないそうだ。従って土地を所有したり、国境を必要とはせず自由に他の縄張りへも、挨拶と儀礼をすれば通行が可能であった。農耕型社会では、土地の面が重要であり、その面積で収穫の大小が左右される。点と面の違いは、点を線で繋いでのネットワークでは対等だが、農耕型は面と面の違いは階級が発生し、国家の基礎となる。狩猟民族は少数で暮らし国家を持たない。

そんな農耕国家から近代文明を身につけ躍進した国が、ある少数民族と対立した。去年台湾を旅行し、今から80年ほど前に台湾で起きた「昭和10年の霧社事件」という悲劇を知った。身長2メートル近いその部族の頭目は、現在台湾で使われているコインに刻まれていた。頭目の名は、モーナ・ルダオ。台湾の映画「セデック・バレ」で主人公が莫那魯道=モーナだった。中華民国90年とコインには刻まれ、辛亥革命が起こった年が、中華民国元年であることもこのコインから改めて知った。バイカラーの美しいコインと、日章旗と虹の部族が戦った記憶がつながる世界。
霧社事件は検索で様々なことがわかります。

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昭和14年(1939)全国1万人の若者を今夏二ヶ月半、北満地帯へ派遣、神奈川県中郡から14名。県からは約130名参加。北満州地方に派遣された若者はその後どうなったのか。

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